「ささえあいの人間学」をつくる過程で、私が考え続けたことは、他者と厳然と区別される個人が、同時に、他者との関係に中で存在している、その矛盾と統合にわたしたちはどのように向き合えばよいのかということであった。 観念論に陥りがちなこのようなテーマを最後まで具体的問題を通して考えたい、矛盾をはらんだ個人を「ささえる」ことは、社会の中でどのような意味を持っているのか、日常の中で実感をもてる言葉を探したい、というのが、研究を始めて間もない私の、強い希望であった。 「自己決定」は、そのような中で、私が一つの手がかりとした言葉である。 哲学・倫理学・医学・仏教を専門とするごく若手の研究者と論文のリレーでは、「ささえること」の観念的な側面と実質的な側面、ポジティブな側面とネガティブな側面が提示され、「ささえる」という言葉に対する各人の「思い入れ」の差が、しばしば議論を紛糾させ、議論の進展を妨げた。 この経験は、その後、臓器移植、出生前診断、生殖補助医療技術、遺伝子診断など、いわゆる生命倫理の新しい問題に取り組む際、自分を「すっきりしない立ち位置」にとどまり続けさせる力ともなっている。 本講演では、「ささえあいの人間学」の議論の過程を紹介しながら、それが現在の私にどのような影響を与えているか、積み残した問題をどのように考えるか、新しい問題とどこがつながっているのかについて、私なりの考えをお伝えし、忌憚のないご意見・ご批判をいただければと思っている。