講演4 三上 和夫 先生

「現状の肯定的な評価からの出発 協同の制度の充実にむけて」

1.演習と講義から イ.「見よう見まね」の領域の縮小、てまひまの大集合としての総合型学部 ロ.教養としての「社会科学」の衰退、標準テキストの模索と実験 ハ.「仮説と検証サイクル」のモデルとそのズレの確認作業

2.ふたつの大学の勤務経験 イ.研究の分化と意味付けの変化 ロ.イベント的研究と個人業績の蓄積 ハ.新旧パラダイムの相剋と研究喚起力の競合

3.「社会科学」研究の困難 イ.イデオロギーからの離脱(科学志向・改革志向) ロ.パラダイム多極化の動向(新型学部) ハ.基幹パラダイムの縮小再生産と更新中断

4.フィールドと方法との相対的独自性

5.何を肯定し、推奨すべきか? イ.見よう見まねの保存 ロ.手続き、方法のもう一歩先の交流 ハ.共同研究による信頼の定着

6.知性を発酵させる交流と議論のはずみ ・大講座、・カリキュラム改革、・博士課程の設置とあらたな知性人の養成

 三上 和夫
  神戸大学発達科学部
  人間発達科学科
  教育科学論講座
  主専門分野:教育行政

三 上  3人の話を聞き入っているうちにあっと言う間に自分がしゃべるということになっちゃって。

 私の書いたものは、印刷(上記要約)の中に入れていただいてますので、この講演4というところに、1・2・3、それで、イ・ロ・ハとつけてあるキーワードのところを、順にお話ししたいと思います。

 きょうの主題は共存型学部ですが、今、文系、理系共存型学部という格好でテーマができてますけれども、これは共時的に見ればこうなのであって、歴史的な空間座標の上に置き直しますと、教育学部というものと発達科学部というものとの名称変更にかかわる歴史的な流れというものが入ってくるだろうと思うんです。私は、教育制度、教育行政の研究者ですので、教育制度、教育行政の研究についてこの25分間を使って大体5世代前までさかのぼることができるわけです。

 一世代前は、私が最初に就職して助手をさせてもらった大阪大学人間科学部が発足しました。ちょっと前に大阪大学の基礎工がありますでしょうか。

 では二世代前は何なのか、戦後改革です。戦後改革において、非常に特徴的なことは、文献的にはあまり出てきませんが、教授資格審査をやってますので、戦前・戦中との断絶が人脈的にもあるということであります。

 じゃ、三世代前は何なのか。大正デモクラシーと言われる時期の臨時教育会議において、私立大学の大学昇格が認められた。つまり、大学の私大への拡張です。

 その前は何か。そこは東大と京大の発足です。

 我々、大学というときにはですね、やはり私はあの慶応義塾というものを尊敬するわけでありますが、こういった制度史には入ってこない。言ってみれば石器時代からあった大学みたいな長い歴史を持っているから慶応は偉いわけです。我々がやっている議論というのは何なのかというとですね。明らかに、戦後改革でもって大学の果たす役割は十全に充足できなかったがゆえに、これを何らかの格好で改善すべく発足した戦後第二世代の大学以降の大学のあり方です。私は、そういう第二世代のところで作られた大学は、決して否定的なものではないと思っておりまして、タイトルをこの「現状の肯定的な評価からの出発」というふうにしたわけです。

 例えば発達科学部。「いろいろ迫られたから発達科学というんだ」というふうに言う人が結構いますけれども、これはおかしい。できた以上は正しいんだ。できた以上は正義がこもっている概念として発達ということを言うべきなんです。こういうふうに吹き上げるのは比較的簡単なんでありますが、この問題については最後にもう一度申し上げたいと思います。

 ただ、私は、自分の研究歴から言って、教育学部ならよかったのかという判断については、はっきり否定的に見てます。教師というニンジンを吊るのと、発達科学というわけのわからない十字架を背負うのと、どっちがよいのかという問題に入りますと妙なことになります。今、迫られているのは、発達科学という学問なり学問領域の見通しというものは何なのかというところに立ち入る時期に来てるんだと思います。現状は、じゃあどれくらいのことができてるのかというと、演習と講義でほんのちょっとという段階です。それで今、本当に困っている部分をお話ししたいと思います。

 今、一番深刻に悩んでいますのは、教育学部においては、伝統的な生活知と言いますか、技術知とも言えるようなものはあったと思うのです。見よう見まねで勉強させていくという世界が、今確かに衰退してきてるという実感です。学部の2年生、3年生にリポートをやってもらいますと、半分ぐらいしか演習に出てこない。私、1時間目にやっているということもありますが。非常にまずいリポートについて指摘しますと、それに出た人は改善されるけど、出席していない残りの3分の2は改善されないわけです。したがって、私は、非常に怒りっぽい一面もありますが、3べん怒らないと常識にならないというのは非常につらいものがあります。こういう意味では、見よう見まねの領域というものが現実に縮小しており、学生は、こういう見まねの領域をできるだけ少なくして大人になりたいという、ずるっこい考えを持ちはじめている。これに対してどうしたらいいのかというと、我々は少なくとも、かつてのような見よう見まねで研究者の再生産はできないと考えるということです。あんまりかつてのとおりに言ってると嫌われる、そういうことです。

 先ほど来、3人の先生方の報告の中で、特に発達の先生方のところのお話でよく出てきましたのは、今先生方は、結構忙しいということです。この学部ができるときに、旧来のカリキュラムを背負って継続してきますものですから、多くの先生が何コマも持っておられる。お聞きしてるところでは、8コマから10コマぐらいは、皆さん持っておられる。これは本当に大変だろうと思います。

 ただ、私は20年ほど前に大阪大学の人間科学部ということころで助手を始めましたが、昼間はみんな大忙しで科研費の消化をしなきゃいけなかったんですけど、夜は暇でして6時ごろみんな帰っちゃうんです。今、阪大の医学部及び病院がある前に、ぽつんとその人間科学部の建物がありますけれども、あそこは、周囲1キロ、人間がいなくなる。お猿さんしかいなくなるというところだったわけです。したがって、単身赴任だった僕は、週に何日か泊まると、明け方まで勉強できたんです。先生方は忙しいのはわかりますけれども、何かの格好で、全く別の格好での暇を作り出すということについて考えてみる必要があるんじゃないかと思います。今の10コマも持っておられる先生方は、どうやったら暇を見つけることができるのかということ、これだけでもきっちり考えればいいんだというふうに思っています。そうしないと、総合型の学部というものが定着してくる、あるいはそこで先生方が新しい研究をブレイクスルーで達成していくというのはむずかしいと思うんです。

 私は、助手のときに考えましたのは、5時になったら共同研究とか面倒な仕事はやらない、午前9時以降しか考えないというふうにしていました。ですから、その切り換えを、個人としても、また、大学院生なんかの新しくエントリーする人もですね、考える必要があるんじゃないかと思います。

 次にいきますが、個人的には、今、教養としての社会科学というふうに言いたいと思うんですが、これは人文学も含めて、もっと広いものかもしれませんが、今、私ら、学生のときには、大学生だと「こんな本を読んでないのか」という日常会話が1日に3べんぐらいありまして、読んでないと、次の日までに、とにかく目次だけでも見ておくとかですね、次の日にほかのやつに、もう1人「こんな本も読んでないのか」と言うことによって、次のやつにババを渡していくというふうにやってました。ところが、今たとえばマルクス系のものを言ったってですね、馬鹿にされるのがおちであります。社会科学一般の議論としても、多くのパラダイムが変動に直面しています。

 そうしますと、教養部の再編も含めまして、社会科学の基本的な標準テキストというのがあるのかどうかということも大変疑わしくなってるわけです。私は、発達科学部でちょっと不似合いなんですけれども、民法の先生の平井宜雄先生という方の『法政策学』というものを、今年は学部の3年生の演習に使ってます。これは、ほかの本でしたら最初に目次がありまして、次は前書きか何かがあるんですが、引用文献一覧というのが一番前に出てですね、「こんな本も知らんのか」というのを言うのに言いやすくできている標準テキストなんです。もう1つの特徴は、組織理論とか、社会学の標準理論については、非常に丁寧にフォローされているんです。

 これはやっぱり、日本の大学で一番最初にできたのが東京大学ですが、しかし、その中でも一番重要な意味を担って登場したのが法学部であります。さすがに法学部というものは、学問としてすごい。何がすごいかと言うと、何々学というと、皆さん、科学だと思うんですがこれは錯覚です。日本の大学がいろんな学部を作っていったときに、それらの学問体系が科学だったということはありません。「何々学」ということによって、自ら国家がどのような使命を負わせるかということをつけたラベリングがこの「何々学」です。法学部第1講座というのは、確か「国家学」と言ったはずです。じゃあ、国家の科学か。そんなことはないです。あれは、国家というものについての正当性を与える学問だったということです。したがって、社会科学、人文学を見た上で言いますと、「何々学」というふうについてるから科学だというふうに思わない、社会科学及び人文学については「学」と名のつくイデオロギーなんだというふうに、まず見るべきだというふうに思うわけです。

 私の尊敬する南原繁先生は国家学で、その弟子の丸山真男先生も国家学講座の助教授で、名著をお書きになったはずです。言えばきりがないんですけれども、植民政策という講座がありまして、そこは矢内原忠雄という方がやっておられて、社会政策という講座がありまして、それは大河内一男という経済学者が担当したはずです。怪しい名前のところほど大きい人が出る。これが学問の歴史の一面なわけです。きょうは、自然科学の方がいっぱいいらっしゃると思いますので、先生方のお考えになる「学」というものに対する認識と随分ずれたところに、私の「学」という認識があるということを、エピソードとしてお話ししたわけです。

 だから今、私は大学問をやるつもりはないけれども、少なくとも標準テキストを使うことによって、100冊から150冊の本の名前は知って、読んでないけれども、その話には乗ったような顔をしたいという願望をですね、まず巻き起こさないとしょうがないというふうに思ってます。

 次は、大学院で何をやっているかというと、今年は私の先生の五十嵐顕の著作を読み始めたんですが、後期に一番時間をかけましたのは、我々の分野ですと、歴史史料に基づく研究というのが結構大きな比重を占めてますが、これをどう位置づけるかという討論です。これは、紙に書いてあれば文字事実であると確定するわけです。したがって、遺書であろうと何であろうと、人間があとに名を残したいと思ったら、日記でも何でもいいから書き残すということがまず必要なわけです。書いてないのはだめなんです。そういう世界です。しかし、大学教育研究センターとかいろんなところで新しく起きている教育学の実践的な学問のところでは、授業観察についてもかなりコントロールした条件設定して、定量化していく領域の研究が結構進展しています。この2つの領域の大学院生が、ともに「教育学の秘境」と言いますか、悪文でもある五十嵐顕という人を、半年読んで、相当疲れ切ったわけです。もうこれ以上の前進は見込めないというので、お互いが学問方法論をどう考えているかということを議論してもらうことにしたら、最初のうちは停滞してたんですけれども、なぜか、私らの場合には、こうやったら証拠があがったというふうに見るんだという、実証ということがどこで成立するのかという議論を、勝手にやらせたら、どんどん黒板で板書しながら、人形の形を書いたりして議論をやり始めたわけです。ほぼ半年、私はこれで、演習の使命を果たしたと思って喜んだわけですが、明らかに仮説と検証のサイクルと、そのモデルとなるものというのは、100人いれば100通りに近いくらいあるということです。

 したがって、研究者のほうで共同していくということと同時に、これから育っていく若い研究者は、全く自分とは違ったモデルに対してどういう作法を持って対応するのかということを、適応でもいいですし対立の技法と言ってもいいんですけれども、それを何らかの格好で、身につけていかないとやっぱり生きていきづらいだろうと思うんです。

 実は、大学院の演習は、今年、前半がちょっとあまりにきついことをやり過ぎたんで、反省に基づいて手を抜いたというところがあるんですが、思わぬ効果があったんでちょっと経験のこととしてつけました。

 私は、これら全体を考えますと、結局、我々がある程度の新しい学部の担い手にふさわしい、見ばえと言いますか、機転のきくその格好を、学生に対しても社会に対しても、見せなきゃしょうがないんだろうと思います。

 2つの大学での勤務経験というところでちょっと書いておきましたが、最初は、忙しい中でいろんな仕事を徹夜してやってというようなことが多いんですけれども、結局のところ、自分の興味、関心の焦点が次第に固まってくる部分があります。これを意味づけの変化として、丁寧に自分で心に刻んでおくと言いますか、日記に書いてみたりしておく必要はあるだろうと思うんです。

 それと、もう1つは、イベント的研究という、これは決して共同研究のことをおちょくっているつもりはないです。大学というものがある以上、見ばえのする、あるいはわかりやすい、外に対して標準になるような研究は、やっぱりあると思うんです。私の例で言えば、『学校組織特性』の研究という、私にはなじみにくかった研究があります。因子分析とかいろんな格好で意識調査の処理をやって、それで発表していくという研究です。私はイベント的研究というものと、自分の個人業績の蓄積というものとは、相対的に分けて考えるというふうにしてきました。じゃあ私の個人業績とは何なのかというと、これは、学校統廃合の現実に対応すると同時に、学校統廃合というものをどう説明するかという一般理論を出すということであります。したがって、イベント的研究がどう進んでいようと、学校統廃合の紛争が起こると、すぐそこへ飛んでいくということであります。ですから、週末は汽車に乗ってそっちへ行っちゃうわけです。

 そのときに、学校統廃合にも大学院生を誘いました。結果的にはどうなったかと言うと、因子分析のほうも一緒にやってた、学校統廃合の調査のときもやってた。だけど、結局のところ、大学院生がどんな研究を今やっているかと言うと、歴史研究やってるのもいますし、フィールドでやっているのもいますけれども、学校統廃合の学校封鎖をやって、占領しているとかですね、いつも何か警察に写真撮られているようなところへ大学院生が行った、そのスリリングな経験が研究の軸を決めちゃっているんですね。結果的にそのような悪の道に導き入れたことが正しいかどうかというのは、僕もよくわかんないんですけれども、彼らにとって1つの大きな転機であったことは間違いないわけです。

 私は、そういう意味では、文系、理系という話と同時に、いくつかのパラダイムということがどうなっているかというふうなことをちょっと、みんなが議論し、ある程度容認しあう関係が必要だと思います。こんな話をしますと、そもそも新旧パラダイムだとかですね、パラダイムがいっぱいあるような議論というのはまぎらわしい、おかしいんじゃないかという議論になると思うんですけれども、少なくとも、私が「学」は「科学」ではないと言った、その視点で見ますと、25年たつとパラダイムはシフトしていかざるをえないのです。昔新しかった学問は、25年たつと古い学問になるわけです。したがって、非常に力は弱いけれども対抗パラダイムとしての芽が出てくるわけです。この局面だけ見ると、イスラム教ホメイニ氏が言った「真理は常に少数者の味方である」というのは、これは歴史事実にあてはまるということになります。

 私は、そういう意味では、どのような学問が今後栄えていくかということは、新しい世代の研究者にどのような強い研究関心が定着するかによるんであって、そういう意味では、研究方法上大きな意味を持つ自然科学か社会科学かというふうな基礎教養の問題は、むしろそういった強い研究関心に触発されて、いくらでもと言ったら言い過ぎなんですけれども、相当フレキシブルに考えられることだと思います。私のメモには、そこのところをちょっと書き漏らしましたが、「30歳の転身」、「40歳の手習い」あたりまでは許されるんじゃないかと思います。私は40歳過ぎてから、建築学とか空間論というのをちょっと勉強したいなと思って始めましたんです。これはもう高級な数学のところはわかりません。ただ、哲学的にまとめられている部分についての、ある程度の理解をしようというだけのことなんです。もう、やってますが、それは必要なんじゃなかろうかと思います。

 こういうふうに見てきますと、私はなぜ現状の肯定をするのか、肯定的な評価から出発するのかということを、かなり、くどい、えぐい形で言うべきじゃないかというふうに、だんだんテンションが高まってきたわけであります。

 3の社会科学研究の困難にうつります。1つは、戦後の大学では社会科学においては、戦争責任だとか、国家への従属という問題がかなり重大な問題でありました。大学教員の資格審査をやったわけですから、社会科学、人文学のところで言いますと、大学は常に既存の秩序の正当化と安定ではなくて、改革指向というものを学問として持つ必要があるという、非常に強い臨場感を持ってたわけであります。ただ、これは、戦後学問というものの美しい特徴であるはずなんでありますけれども、しかし、この戦後学問の美しい側面は、ロのパラダイム多極化の動向に対抗・対峙したのかというところをかなり丁寧に見なきゃいけないというふうに思っています。

 私は、助手として大阪大学の人間科学部へ着任しましたが、結構つらい面もありましたが、端的に言いますと、中から見て悪い学部とは言えません。むしろ、新しいすき間、適切なすき間がいっぱいあった、と言っていいです。その周囲1キロ、人間がいなくなるとかを含めまして、私には結構よかった。だけど、教育学の人たちは人間科学部という名称に違和感をもっていた。これは、イとロは、同質である面と対立的な面があるということです。イとロが対立するときには、かなりイの人から文句言われても、ロのほうの正当性も言ってこなきゃなんないというのが私の主張です。

 ところが社会科学の場合には、、30歳前後から40歳前後まで、いろんな講座ものとかですね、単行本でテーマものというのをよく作ります。そのときに、編者の先生が集めて、普通には絶対一緒にならないような人が、ある日突然、ばっと集まるということがよくあります。私は個人的には、そういうものを求めて外へ出た面もあるんです。これを何十本もやってみてわかったんですけれども、何て言いますか、雑巾がけというのは言葉は悪いですけれども、問題関心を洗い直す得がたい機会だったと思うのです。例えば、私の論文を審査した先生方は、すごく早い時期に大家になってしまってそういう機会が少ないんですね。これはもっとリアルに言いますと、社会科学一般の基幹パラダイムに、社会科学に準拠している教育学者はたいがい乗っている、つまり、教育学者は自立的に教育学理論を持っているという人は少なくて、社会科学・人文学のどれかに準拠しながら、自らの存立を正当化しているわけです。その準拠している基幹パラダイムのほうはどうかと言いますと、これは非常に早い時期に確立されて変更されないというのが、普通の準則になっちゃうわけです。こうなる、そもそも25年たったら、あんまりおもしろくないというところにきてしまう。そのころ、学問の継承者が出てくる。こうして、古いものほどよく残るという傾向ができるわけです。社会から見ますと、結果的には基幹パラダイムは縮小再生産される、ということになます。

 もう1つの非常に言いづらいことをあえて言いますが、じゃ、社会科学系の学問は全部こういうふうに縮小再生産して、どんどん減っていくのかとというと、そんなことはありません。20年に一ぺんとか30年に一ぺんは、劇的に変わる分野もあるわけです。つまり、若い者が反乱軍と言いますか、反乱理論を作るかたちで研究に入ってくるわけであります。ところが、ともすれば本来更新されるべき準拠している基幹パラダイムの更新が中断しちゃうんです。これは、どなたがどうとか言うよりも、研究分野ごとに異なるものかと思います。

 こうなりますと、この社会科学研究の困難を、突破しようと考えるならば、我々に残されたひとつの手は、この共存型学部に自らの拠点をおいてその流動性とすき間の快適さを味わうしかないんだ、ということであります。先ほど言いました、教師というニンジンがいつまでも続くという世界は、少なくとも、私には研究上の発展にとっては望ましいものではありません。以上で、3を終わります。

 最後に6のところで、発達科学部というものを考えていく上で、考えるテーマがいくつかあるんじゃないかと思います。知性を発酵させる交流とか議論に弾みをつけるということです。

 1つは、大講座というものは、少なくとも講座制の悪い面ばっかり引き継いでるんじゃなしに、その内部にある、その近接した専門領域でのいろんな新しい探り合いが可能になるんじゃないかということです。もう1つは、現在進行しているカリキュラム改革のところなんですが、少なくとも、演習レベルでは、刺激のためにあえて挑発するということも、カリキュラム上可能になっているというふうに思うわけです。去年は、大学院で原広司先生、あの京都駅の設計者の原先生の「集落への旅」という本をやってたんです。今日ここにも出席していますが、大学院生が羊頭狗肉だといってかなり批判されました。それともう1つは、これから出てくることとして非常に期待されるのは、あの修士課程、博士課程の論文が、どのようなタイトルで並んでいくか。ここで発達科学というものの実践がほぼ決まっていくんだというふうに私は思います。

 そういうふうにいろんな新しいきっかけをやっていく、その種みたいなものが準備されつつあると思いますので、私は制度の充実に向けてというか、共同の制度の充実に向けていろいろ考えるべきことはあると思うんです。

 最後に発達科学についてつけ加えます。もしできたらということで考えていきたいなと思っていますのは、さっきは十字架と言ってきたんですけれども、発達科学ということを、我々はどのように話題にしていったらいいんでしょうか。阪大人間科学部を思いだしていえば、第一に私はこれを「自己拡張的神話」というふうに言うことにしているんですが、やはり多くの先生が「俺の学問は昔から人間科学だったんだ」と語ること、これです。

 2番目は、翻訳で勝負する。大阪大学の場合は人間科学の何とかいう翻訳本が出たはずです。あとは、招聘教授をドイツ、フランスから呼んで講義をお願いするわけです。3番目は零意気です。風呂敷というのはひろげなかったけど、今にして非常に尊敬できるのは、多くの人たちが、人間科学というものの、いわば自分が生きていく上での生態としての意味というか、ここに生活するほうが研究というものは自由にできるんだということを、非常に慎ましやかに、しかし意気軒昂として表出していたように思うんです。

 我々、同じように、今、発達科学というものを性格づけしていく時期にきてると思うんです。もし、このことを一切議論に乗っけなかったらば、各人が思うとおりに発達科学なるものをフィクションで作り上げ、お互いに、俺の説が正しいんだ、あるいは俺の説を揺るがす人とは話しないという唯我独尊で、みんな生きていくことになります。これは最悪の制度です。学問に対する関心というものは、ある程度、まとまりとか、切磋琢磨とか、いろんな格好で交流するのが原理なんですけれども、これは全く交流がないから最悪なわけです。ほっておけば多分、1人1宗教みたいな格好で、発達科学神話というものがはびこるに決まってます。これでは、どうしょうもないです。

 最良の制度とは何なのかと言えばで、私の目から見れば、とりあえずは交流ができて、年長の人は常に次の世代のほうで何が起こっているかということを事実として知っているという事態が重要です。第1世代の責任としては翻訳でも大風呂敷でも、何でもやってください。でももう1つ持たなきゃならないのは、新しい世代に対するエスノメソドルジカルな眼差しということです。今、彼らの頭の中で、発達科学とはどのような宗教であるかということを丁寧に知ってるということです。それ以上のことは、これから議論になると思うんですが、少なくとも我々は、仕事をする以上、生きる以上は、宗教に類似した熱狂というものを内に秘めているわけであります。その熱狂が一人ひとり唯我独尊だったら、どうせろくなことにならないわけです。だったらば、新しい世代のところで何が起こっているかということを丁寧に見て、その熱狂をつかむと言いますか、自分の専門でつかむか、自分がこれからやらせようと思っているところでつかむ、それが先生方の技量と、作戦と言いますか、ストラテジーになるわけで、そこに話題がいくんじゃないかと思います。

平 川  どうもありがとうございました。三上先生に何か質問ございますでしょうか。それでは、これで前半を終了します。

 今からちょっとコーヒーブレイクタイムを15分間とります。後ろのほうにコーヒーと、ちょっとしたスナックサンドイッチを用意してますので、自由に召し上がって下さい。後半は5時15分から再開したいと思います。じゃ、少しゆっくりしてください。なお、お菓子コーナーの横に質問用紙を置いておりますので、質問のございます方は、質問事項をご記入の上、前のほうに提出ください。


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