講 演2 佐藤 有耕 先生

 「総合型学部への期待に対するためらい」

 学部生時代に,博士課程の先輩から「学際的」という話にはのるな,と教えられた経験があります。また,人間学を学びたいと思って「人間学類(学部)」に入学したのに,結局「教育学」「心身障害学」「心理学」の中から一つの主専攻を選択して学ぶだけでがっかりしたという友達もいました。

 総合型学部に対する期待や社会的要請は,確かにあると思います。ただし,自分がそれに応じるつもりがあるかと問われると,ためらいが先に立ちます。余裕ある研究心を持った多彩な専門家集団が,時に共通の応用的な課題に取り組もうとするとき,そこに学際的研究が生まれ,学際的な教育の可能性が生まれるのではないかと思ってはいます。

 しかし,それらが,自分の個人研究,社会人になる大学生のための教育,専門家養成のための研究指導において,優先する価値があるのかどうかには,ためらいを感じます。しかし,見出せるものならばその中に可能性を見出してみたいと思います。

 佐藤 有耕

  神戸大学発達科学部

  人間発達科学科発達基礎論講座

  主専門分野:青年心理学

佐 藤  発達科学部発達基礎論講座の佐藤有耕です。きょうは、こういうテーマをいただきまして、考えてきましたことをお話ししたいと思います。

 自分の中で「学際的」という言葉に関しましては、非常に抵抗があるというか、まゆつばであるというか、あまり近寄りたくないというふうなことを思っているところがあります。そのようなことで自分の考えを述べたいと思います。

 私の略歴として書きましたように、教育学部を出まして、教育学研究科に入りました。それから博士課程で心理学研究科に来まして、発達科学部に勤務して、現在3年目でございます。

 私の場合、かなり見方が狭いんだと思っています。人格的に固いということを随分、指導教官から言われておりまして「人格を変えるか研究者をやめるかどっちかだ」ということを言われまして、「じゃ、人格変えます」ということで無事ここまで来ました。

 大学に入りましたときは、学部1年生で、心理学をやるわけですから推計学を学びます。推計学を学ぶときに、私どもは私立文系ですので「私立文系で、何でこんな数学を学ばなくちゃいけないんだ」ということで、みんながびっくりすると。2年生になって「心理学は科学だ」と言われて、「そんなの初めて聞いたぞ」という感じで驚きます。「科学って何だ」と言われたときに、「科学っていうのは、独自な対象と方法を持った知識の体系である」というふうに言われて、そう聞くと、べつにそんな科学だという気はしないんですけれども、そう言われました。4年生になって、発達心理学という授業を受けまして、そのときに「発達心理学では自然科学的な方法だけによらない」と、そういうふうなことをまた教えられます。科学だと言われて、推計学を教えられて、土壇場になって、必ずしも自然科学的方法によらないということを言われて、よくわからないということになって卒業していきます。

 心理学は、文系の中でも理系に近いように思われていますし、私どもも、学費がちょっとだけ、他の社会科とか、国語科とかの専修の人に比べて、高く取られておりました。

 さて、今日の話の構成は、一応3つに分けております。まず最初、レジメの「Iためらい」のところに書きましたメモを少し読みます。

 総合型学部についての印象ですが、15年ほど前の学部生の頃に博士課程の先輩から「学際的という話には乗るな」ということを言われました。それが僕にとって一番最初の「学際的」という言葉との出会いになります。そのあと大学院のときに、人間学類という名前の学部がありました。そこで、人間学を学びたいと思って自分は入ったんだけど、結局、中に入ると教育学、心身障害学、心理学と、そういう3つの講座といいますか、そういう学系がありまして、そこから1つの主専攻を選択して学ぶだけということが、入ってからわかったと。結局、「人間学」なんていうのをやってる先生はだれ一人としていないんだということに気がついて「自分はがっかりした」と言っている友達がおりました。それは多分、卒論をどういう方法論で研究するかということに左右されているんじゃないかと、今になって思います。

 また、僕も所属している青年心理学会という学会にいる院生が、自尊感情(self-esteem)ということを研究をしているのですけれども、その彼の博士課程での指導教官が、解剖学の先生だと言うんです。どうして心理学の院生なのにそうなのかということを聞いたんですけれども、「ほかに心理学の適切な先生がいないからだ」ということでした。

 結局、規模が小さい学部、あるいは規模が小さい研究科では、学際的ということをうたって、実はいろんな人が集まっているだけということになっているのではないかということを、それを聞いたときに思いました。彼の行っている大学院の博士後期課程のところの宣伝文句が、レジメにつけたコピーです。何となくうちのところと似ているような気がしましたので、ちょっと載せてみました。

 あと、良いほうのイメージとしては、いろんな勉強をしている人たちから話を聞くということは、非常に楽しかったという思い出があります。自分の印象としては、そういうサロンとして学際的な場があるのは非常に楽しい、それは専門家の話はおもしろいからです。しかし、教育や研究に直接的なメリットがあるのかということに関しては、抵抗があるというか、本当かな(?)と思っています。

 レジメの2枚目にいきますが、青年心理学という自分の研究領域の中で思ったことをそこで述べます。

 青年心理学というのは、青年の自己理解を深めるのに貢献し得る心理学的な事実をまず発見して、そこから導かれた知見を青年に伝えようとする、そういうふうなねらいでやっている学問だと僕は考えております。対象ということで言えば、青年期にある人の心理を対象としております。この学会は心理学会の中でもかなり小規模な学会です。

 青年心理学の研究については「1人1テーマ」というふうに揶揄されることが多いです。青年心理学会ではというか、どこもそうかもしれませんが、継続的な研究を重んじる傾向がありまして、いろんなことをやっていると、あいつは何なんだ、という感じを持たれることが多いです。1人1テーマということをもう少し言うと、ここで言えば、僕や齋藤誠一先生が青年心理学会の会員ですけれども、思春期の身体発達と言えば齋藤誠一ということに青年心理学会ではなっております。たとえば本を書くときでもほかの人が身体発達の章を書くのはなかなかむずかしいというふうな感じが、僕らの中ではあります。

 そういう世界ですので、専門家同士で共同研究をしようとしても、まずそういう相手はいません。実際に共同研究をしようと思った人がいても、たとえば青年期の友達関係を専門に研究している人が青年心理学会に何人いるかというと、1人か2人です。そのぐらいしかおりません。いろんな本とかを見ると、テキストには結局同じようなことが書いてあったり、青年心理学からではない知見が書いてあったり、かなり古い知見が書いてあったりすることがしばしばあります。

 青年心理学を専門とする研究者が、今でも学会員で160名程度、これは院生を含めての数字ですので非常に少ないんです。研究成果もその意味では少ないし、浅いということになると思います。青年心理学のテキストを開くと、エリクソンであるとか、シュプランガーであるとか、ブロスであるとか、青少年白書のデータであったりとか、そういうものがいっぱい出てきます。それを見ると、エリクソンとかシュプランガーは何学の研究者というのが適切かちょっとわからないんですけれども、必ずしも、今僕らがやっている青年心理学の研究から出てきた知見ではない、外部からの知見がいまだに多いような気がします。そういうの見ると、青年心理学の教科書や講義は、非常に学際的な内容でやっているということも言えるんではないかと思います。

 実際にやっている研究の中ではどうかということですが、そこではやはり、1人1テーマの世界というのがありますので、特に学際的な活動を研究者が求めているとは僕には見えません。

 それでは次に、レジメの(3)の現在の自分の立場からですけれども、私のほうは青年心理学会で学会デビューしてから5年、研究職について3年という状況にありまして、まず、自分の研究の基礎を固めていきたいということを思っています。国際理解とかの話で「自国の文化を知らずして真の国際理解はない」と、そういうこと言われていると思います。それになぞらえて言えば「専門なくして学際は成り立たないのではないか」と考えております。ですから、学際的な研究に加わるという場合であっても、それぞれの参加者は例えば心理学の人として、あるいは数学の人としてとか、そういう形で加わっていくのだと思います。ですからまず、専門としてはっきり確立したものを持っていないのであれば、参加する資格は十分ではないと考えております。今のところは学際的な研究に参加することの必要性も特に感じておりませんし、その意欲も今のところはさほどありません。学際的ということに対する抵抗みたいなものはずっとありますし、もっと言えば、共同研究に対するためらいというのが相当強くあります。それなもんですから、ためらいということが先に出てきます。

 そうではありますけれども、一応、こういうふうな集まりのところに参加させていただいて、ほかの先生たちがいろいろためになることをおっしゃるし、僕以外の人はみなさん意欲的だということがわかりまして、ああ、なるほどなと思いました。それで少し僕も可能性というものを、引きめ引きめで、引っ込みながらではありますけれども、ちょっと可能性を考えてみました。

 学際的な研究への期待ということですが、神戸の須磨の事件のあとで、それについて書かれたいろいろな本であるとか、論文を読むような機会がありました。あの事件について書かれた文献を見ますと、精神医学であるとか、社会学、教育学など、いろいろな立場から書かれていました。あの事件を検証しよう、あるいは、あの事件から何を問題として今取り上げるべきなのか、そういうことを考えていくのに、学際的な観点というものは非常に役立つんじゃないかと思います。そして、それ以上に、具体的な対策、現在の問題に対してどのような対策を講じるのか、そのような応用的な課題においては、学際的な観点からの研究が有益になるのではないかと思います。例えば、子どもの健全育成という問題を考えるにしても、学歴偏重の風潮がある、それを何とかして改善していこうとか、法律などの制度的なものの整備であるとか、学校制度の改革、あるいは親を支えるための公的システムを整備する、もっと教育内容を変えていく、もう少しスクールカウンセラーを充実させようとか、いろんなことがあると思います。多くの場合、心理学の研究をやっても、でも、それで世の中を変えようとしても「心理学の力だけでは変わらないよ」ということになって、「そうだね」ということで終わると思うんですが、そこへ学際的な発想をもって、全体を動かしていくとか何か具体的な案をたてれば、もうちょっと解決策として、有効な策が出てくるのではないかということを思います。

 大きなテーマに関しては、そして、何かについての対策を考えるとか、そういうことに関しては、学際的な研究というのは有効なのではないかと思うんですけれども、果たしてそのような大研究にだれが取り組むのであろうかということを、僕は思います。それを本業として取り組むということに対しては、やっぱり勇気がいるんじゃないかと思います。それを本業としてではなく、サイドビジネス的に、一時的にそのプロジェクトにとりあえず参加しましょうというくらいならできるかもしれません。ですが、それはなかなかむずかしいでしょう。それで、自分の授業も普通にやりながら、自分の研究も普通にやりながら、あいた時間に月1回集まってやろうとかになっちゃうのではないでしょうか。その程度のことであれば、意味のある研究として結実するのはなかなかむずかしいのではないかというふうに思います。修論でさえ2年かかるわけですから、このような大研究をいろんな研究分野の人が集まってやろうとした場合には、かなりの時間をさかなければいけないと思います。1年なり2年なり、その研究を第一に考えるという決断は、非常に勇気がいるんではないかというふうに私は思います。

 実際に、たとえば、大型の研究費をとって共同研究をしようということがあった場合、それは多分、舵取り役次第でよしあしがほとんど決まってくるんではないかと思います。個々の研究を並列的に網羅しただけでは1つの研究ということは言えませんし、個々の研究をきちんと全体の中で位置づけて構成して、研究成果を最終的に統合していくということが要求されると思います。そういうことをうまい具合にプロデュースしていくというのは、広い観点から物事を観る力があって、個々の意見を統合して1つの方向性を持たせていく。そして、しかも、プロジェクト終了後、仲間割れがおきないようにする。聞いた話では、共同研究をやった場合に、最後に仲間割れになるとか、オーサーの順番がどうだとか、研究費があっちにたくさんいってうちには結局何にも残らない、消耗品はうちの大学に残ったけれども、コンピューターは向こうの大学に3台入ったとか、そういうことで仲間割れがあったりするということがあって、そのあとその研究会がなくなるということさえあるようです。ですから、そういうすべてを満足させるような研究プロデューサーというのが、実際にどこかの研究領域の専門を持った人にできるのか。むしろ研究者以外で人材を探さなければいけないということもあるんじゃないかと、そんなことも思います。心配し過ぎかもしれないんですけれども。

 レジメのIIの(3)として、自分の中でどの程度、学際的な志向があるのかということですが、個人研究という点におきましては、自分のやっている青年心理学の研究の中では、ある程度学際的な観点を取り入れて発想の材料を探していると思っています。仮説を立てる場合とかであれば、もちろん文献資料を探すときに心理学の中だけで探すわけではありません。実際に「青年期における孤独感の構造(落合、1989)」という研究があるんですけれども、そこの中では、僕のやった研究ではありませんが、研究を進めるための仮の定義をするところは中国文学の方の文献を利用してやっていますし、発達の仮説を立てる場合には、何学の人というのが適切かわかりませんけれども、ベルジャーエフの考え方を利用してその仮説を作っております。そういうふうに、ある程度のことは多くの研究の中ですでにやっているんではないかと思います。

 自分の研究の中では、たとえば問題提起の部分では、多くの文系の研究者と同じような作業を、多分しているんではないかと思います。そして、データの分析などでは、一部のそういう実験系の理系の先生たちと重なる部分があると思います。心理学の研究論文というのは、実証的な研究論文は、どっちつかずという批判もあると思うんですけれども、私の場合文系的な、理系的な研究方法ということは特に意識しておりません。

 レジメ3ページのまん中へんに小さい字で書いてありますけれども、大体僕がやっているのは青年期の自己嫌悪感の研究で、そのほかに友人関係であるとか、親子関係であるとか、そういうことにかかわってきました。これらは専門用語でも何でもありませんし、ここにいらっしゃるどなたでも、自分の経験だけで「うん、若いころの友人関係、友達にはこうだったな」とか、「自分がこういう感情を感じるのはこんなときかな」とか、どなたでも語れる内容であって、文系も理系も、専門家も素人もないところがあります。ですから、特に区別してという発想があまりないのかもしれません。

 次に、レジメ(3)のbの大学生への教養教育と専門教育です。専門教育というのは、僕がやっているのは心理学ですから、その心理学を教えるという意味です。教養教育というのは、教職科目であるとか、そういうぐらいのところを指しています。

 まず、教養教育としては、僕は青年心理学を来年もちます。結果的に他の領域の知見を使って話すことはもちろんあるんですが、基本的には自分がかかわった研究を使って講義をしていきます。それが半分ぐらいあります。ですから、おのずと学際的な色彩というのは薄くなっております。それでいいというか、そうしたいと積極的に思っています。

 2番目に専門教育ですけれども、「人格形成論演習」という、自分のところのコースの学生を中心にした授業を持っています。こういうパブリックな場で、発達基礎論コースの学生を「心理学を専攻する学生」というふうに呼んでは、多分いけないんだと思うんです。「発達基礎論を専攻している学生」というふうに言わなくてはいけないと思うんですけれども、発達基礎論なんていう学問はありませんので、とりあえず心理学と言いますが、その心理学を専門として専攻したということは、とりあえず心理学の論文が理解できるということだと思っています。ですので、「人格形成論演習」におきましては、まず一番最初の専門教育として学生に「この論文を読んできなさい」ということを言いまして、論文を理解させるためのはたらきかけを行っています。そして、その論文をわかって、まとめて発表できるようにというふうなことをやっています。ここでは、学際的な色彩はほとんどなく、心理学の論文だけを読ませています。そのせいか、他コースからの参加者はめったにおりません。

 最後に、卒論指導ですが、これは「発達研究法III」という授業名でカリキュラムに入っております。ここでは、私のところでは完全に個別指導をしますので、1対1でやります。ゼミ生は、今年は3人でした。青年心理の研究パラダイム、そんな大げさなことを言っていいかわかりませんけれども、レジメの最後5ページのところに表を載せておきました。それが、私たちの世界では、青年心理学研究のパラダイムとして出てきた初めてのものです。こういうものはこれ1個しかないので、これが正しいかどうかはわかりませんし、青年心理学者が全員これでやっているかというと、そんなことは全然ありません。ですけれども、私の場合にはこのパラダイムに乗って研究をさせるようにしております。学生に対しては、卒論を書くことが大学生活の目的であるというふうに言っておりまして、私が指導している卒論生は3年生の後半から、このパラダイムにのっとって研究をしていくということで、3回生は今ちょうど、プレ卒論という形でも、私と一緒に共同研究をやっております。

 中には「卒論でこんなことをやりたい」ということを本当に自由に話す学生もいます。伊東先生のところに来る学生は「それをやりたくて来るんだ」とおっしゃいましたけれども、私たち発達基礎論コースの場合には、本当は臨床心理学をやりたかったのに、臨床心理学が満杯だから僕のほうに来るという学生が少なからずおりますので、必ずしも希望してくるわけではありません。でも、希望してこようがどうしようが、僕は自分のやり方で伝えることしかできませんので、大体これに乗せていきます。そうすると、やっぱり夢のようなことを言ってくる場合に、たとえば犯罪心理学をやりたい、神戸であった事件、ああいうのに対する被害者の心理を卒論でやりたいとかいうようなことを言う学生もいるんですけれども、そういう場合に「それを何のために、どうやって研究する気なんだ」ということを僕のほうで言ったりしますので、そういう自由な発想を僕のほうでつぶしているところは、いささかあります。

 今述べましたように、自分の授業の中でどんなことをやっているかというと、やはり学際的なところはあまりないんですけれども、もしこれから何か考えるとしたら、こんなことはどうかということをその下に書いてみました。

 1・2回生に対する教養教育の範囲で、たとえば学際的な講義をするとしたら、多様な観点から語れるテーマを設定して、それに対して12コマ授業回数あれば12人なり10人の教官で行う。それは十分可能であると思っています。実際にもう、そういう授業はないわけじゃないと思います。自分が前にいた大学でも、そういう総合講座みたいなのはあったんですけれども、それはやっぱり、どういう形で統一テーマを出すかということをきちっと考えなければうまくいかないと思います。自分が考える講義のテーマとしましては、研究とは何かとか、社会には何が必要かとか、人間はどのように発達していくかとか、人の発達に不可欠なものは何か、そのような大きいテーマを用意すれば、いろんな先生たちがおりますので、先生たちがめいめい自分の専門にそっていろんな話ができるんではないかと思います。観点の多様さ、研究様式の相違など、発達科学部の全貌を知るのに最適な学部案内になる、そのような授業になるんではないかと思います。たとえばビデオに撮ったり、活字におこせば、企業で「発達科学部って、どんなことをやってるんですか」「どんな人がいるんです」っていうのを聞かれたときにも、それを見てもらえば説明できるんじゃないかと思います。

 どこにも収れんしていかないようなバラバラなオムニバス形式の講義であれば、それはべつに魅力を感じないんですけれども、もしこのような講義があって、できればコース選抜にも無関係で、試験も広範囲に記憶しておく必要がないという形であれば、自分でもぜひ受講してみたいと思います。

 個人研究と、学部生の教育についてこれまで話しました。これから、専門家養成のための研究指導について話したいと思います。

 専門家養成のための研究指導ということでは、大学院の教育、特に博士課程を考えなければいけないと思いますが、僕は今、修士課程の学生ももっておりませんし、現在まだ、自分が指導教官から研究指導を受けているという立場にありますので、具体的にはちょっとイメージがわかないし、やっておりません。ですが、もしやるとすれば、研究指導というのは、マン・ツー・マンの個人指導以外には自分には考えられませんので、多分そういうふうにやっていくんじゃないかと思います。私の中では、自分が指導されたようにしか院生を指導することができないんじゃないかと、自分が受けた研究指導のスタイルでしか院生を育てることができないんじゃないかということを、今、思っています。学際的な教育を受けた教官でなければ、あるいは学際的なことができる教官でなければ、学際的な院生を育てることは非常にむずかしいんじゃないかというふうに思っています。もちろん僕のほうでも、10年20年たって、自分のオリジナリティーが出てくるようになれば多少変わってくるとは思うんですけれども、今のところはやっぱり、教えてもらったようにしか教えられない、そんなことを感じております。

 僕は結構、タコツボ的にやっておりますので、僕のところからは、タコツボ的な院生が育っていきそうな気がします。せめていいタコツボを用意してあげたいと思っております。

 最後に結論のところを申し上げます。結論としましては、要請は確かにあると思います。さっき言ったような何か対策をたてようとする研究、神戸の事件とか震災とか、いろいろあるとは思うんですけれども、積極的に参加するかと言われると、やはりためらいが先に立ちます。

 僕の最後の本当の結論ですけれども、余裕ある研究心を持った多彩な専門家集団が、時に共通の応用的な課題に取り組もうとするとき、そこに学際的研究が生まれ、学際的な教育の可能性が生まれるのではないか、そのように思っています。

 それについて少し補足しますと、多彩な専門家集団というのは、まさに発達科学部であると思っています。共通の応用的な課題があるのは十分わかっています。社会的な要請ももちろんある。人材と課題の2つは発達科学部にすでにあると思います。余裕ある研究心という部分がどうかということですが、自分にあるのか、周りを見て、確かにそういうものがあると言えるのかというと、ちょっとわかりません。それには多分、遊び心であるとか、タコツボの外が目に見える感受性、時間的な余裕、そういうものが必要な気がします。ですけれども、現在いろんなことがありまして、結構時間をとられているという印象は、多くの先生たちが共通して持っておられるんじゃないかと思います。そんな中で学際的な研究であるとか教育に、積極的にかかわるという余裕のある研究心というのは、なかなか育たないような気がしています。何を言うか、そういう中でやっていくのが国立大学の教官なんだとお叱りを受けるかもしれません。でも、そういう余裕ある研究心というものを育てるのに、個人の意欲であるとか、善意であるとか、自発性に頼っていては、なかなか先へ進まないのではないのかと、そういう気がしております。

 最後に、今回のワークショップのテーマの趣旨というプリントにある(a),(b),(c),(d)というポイントにそって、もう1回、自分の意見を述べたいと思います。

 レジメ5ページ(a)ですが、文科系、理科系の融合した研究への期待とその現状。人がやってくださるなら研究成果は見てみたいと思っています。でも、自分の参加にはやはりためらいがあります。

 (b)のそのような研究を担う人材を輩出するための具体的な取り組みとして何があるかということですが、学際的な教育をするのに、それができる人が1人いれば、少なくとも1つの講義は可能だというふうに思っています。その1人がいなければ1つの講義もできないということになると思います。しかし、複数の教官が共通テーマを設定して1時間ずつ語っていく、そういうことは実現可能だと思いますし、やるのであれば、とても興味があります。正確にはやるのであればというよりも、聞くのであればですけれども、とても興味があります。

 (c)として、それらを通じた問題点の克服への展望ということですが、そういう学際的な研究を志向する研究者が多数育つのに、あと何世代かかるのか。そういう指導教官がいて、院生がいて、その院生が育って指導教官になって、次の院生を育てて、そういう世代交代を何世代繰り返していけばそれができるのかということは、わかりません。だから、展望を持てないでおります。

 最後に(d)、それを保障する制度的な基盤。制度的な基盤については、いろいろご意見があると思いますが、まず、余裕ある研究心が育つには、制度的な基盤も必要なんだけれども、まずは1個でいいのでそういう研究プロジェクトを成功させて、魅力的な研究成果を導くことにあるような気がします。それがあれば、ああすごいなあ、いいなあと、こんなことができる、あるいはこんなふうな楽しいディスカッションができる、成果もこれだけあるということがあれば、それにぜひ参加したいと思う人たちも増えるんではないかと思います。

 でも、そういうふうな総合研究ができあがっても、分量がいっぱいあるから学会誌には投稿できないから、紀要かな本かなあと、そんなことまでちらっと最後に思ったりもします。そんなみみっちいことを考えていたらいけないんじゃないかと思うんですけれども、つい考えます。

 本当に狭い範囲での私見を述べさせていただきました。どうもありがとうございます。

平 川  どうもありがとうございました。佐藤先生に、質問がございますでしょうか。

城(発達科学部生活環境論講座)  博士課程の先輩が「学際的という話に乗るな」と言われたそうですが、もう少し具体的に話していただけないでしょうか。

佐 藤  具体的には、これは飲み屋での話です。飲み屋でいるときに先輩が、先輩に何か学際的な取り組みとか何かの話があったんだと思うんです。詳しい話は聞いてないんですけれども、「学際的という言葉には乗るな」と、そういう共同研究に参加しろとか、何かそういう話が出たときに「とにかく乗るな」と。先輩も、僕が学部生であることを知ってましたので、いろいろ詳しいことは言いませんでしたけれども、僕の耳にはそれだけが残ってて、具体的にどういう学際的な研究やプロジェクトだったのかはわかりません。(追記:この先輩は現在東京の大学に勤務しておりますが、月1回医学の研究者たちとの共同研究のためにいそいそと大阪へ通ってきています。こういう目にあうと、大人はズルイなあと思います。)

平 川  それでは、次の講演に移らさせていただきます。造形表現論講座の小高直樹先生、宜しくお願いいたします。

 


「文系・理系共存型学部における教育・研究のあり方をさぐる」ワークショップを終えて

発達科学部発達基礎論講座

佐藤有耕(青年心理学)

 

 今回のワークショップで感じたことは、まず参加者の多さです。この手の集まりに参加したことのない私は、今までの自分を少し反省しました。同世代の若い先生たちが多数参加されていたのには本当に驚きましたが、自分の講座の教官の出席がゼロだったことには妙に納得がいきました。私自身がそうであるように、非学際的な講座にとっては、今回のテーマのような問題意識は薄いということかもしれません。

 印象に残った発言が2つありました。私の理解した範囲で書きますが、「学部の存続に関わる発達科学研究の推進を個人の興味で語ってよいのか(興味がないから参加したくないという個人的な意見が許されるのか)」、「一つの学問に固執してきちっと論文をたくさん書く先生ほど大学に残りやすいし、いいポジションに早くつく。しかし、それではだめなんだ(それだけでは現実問題に対処できるような人間科学や発達科学は生まれない)」というものです。一つめの発言は、“発達科学部”に職を得たことに対する認識が、少し自分には不足していたことを気づかせるものとなりました。つい先日、「大学で発達基礎論を教えている」と紹介文を書かれたのを、“人格形成論を教えている”に直してもらうということがありました。“発達基礎論”というのは看板であって、中身があるわけではない、だから困ると思ったからです。しかし、そうではなく、私たちの講座は“発達基礎論”という研究領域を開拓することを要請されているのでないかと気づいたのです。それを独自な対象と方法をもった独自な学問分野としていくかどうかは別にしても、“発達基礎論”という講義を開講できるくらいには、その内容や立場を明確にできなくてはならないような気がしてきました。時々都合よく“発達心理学”ということばで置き換えを図ることがありますが、これは反省しなければいけないことかもしれません。“発達心理学概論”ではなく、“発達基礎論概説”を1回生に開講すべきなのでしょう。相当な覚悟を持って“発達科学”や“発達基礎論”確立のための仕事を進める魅力的なリーダーが現われたならば、ここに在職している以上断る余地は残されていないような気さえしました。

 二つめの発言も、学会誌や学術論文をかなり強く意識しているまだ若い自分には、厳しいことばとして受けとめざるを得ませんでした。どうしても読者数が多く評価も高い学会誌論文に思い入れが強く、載せるための細かいテクニックに長けてきた自分に気づいているからです。その先生からは、君はそのままでよいと言っていただいたものの、これからどのような方針で研究者を続けていくかについて、もう一度自分の答えを整理してみなければと思っています。

 というような反省や考え直しは、ワークショップに参加し、新たな価値観との出会いがあったためです。その点で、私にとってはとてもためになる楽しい機会でした。活発なご意見をうかがえたことには心から感謝しております。負担だし緊張もしますが、それでもフロアよりは壇上の方が楽しいし、勉強になるようです。次に語るであろう同世代の先生たちに、そのことはお伝えしておきたいと思います。

 それなのに、あれから1ヶ月たった今では、私の中に“発達科学”や“発達基礎論”を開拓していくことよりも、“青年心理学”を磨いていくことに重きを置いていきたいという気持ちが先に立ちます。このような機会をいただいたのに、なんとも硬い柔軟性のない性分には、いささか後ろめたい気持ちがいたします。

 “青年の心理”の理解を深めるために、“青年心理学”と呼ばれる世界の中で研究を進め、それに基づいて“人格形成論”を発達科学部の学生たちに語れるようになれれば、私の研究者としての生き方はそれでよし、としたいのです。“発達科学”の確立というきわめて大きな仕事は、確かに魅力的で価値のあることです。ではありますが、自分がそれに専心していく覚悟があるかと問われると、やはりまだ答えはYesではありません。発達科学部に就職させていただいたのですから、Noという答えは無論ありえませんが、許されるなら、生き方としてはこちらに重きを置きたいというのが、今の気持ちです。夢を語る前に実を取りたいと、相変わらず度量の狭いことですみません。いろいろ考える機会をいただき、本当にありがとうございました。


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