ディスカッション(コーディネータ:小田 利勝)

 蛯名先生から、このワークショップの構想について話があっ てから半年以上がたちました。その間、企画提案者グループのメーリングリスト で断続的に、あるいはまた連日のように、膨大な量の意見が交換され、ときには 夜遅くまで、あっちの部屋、こっちの部屋で議論が続けられました。実に愉快で 実り多い準備期間でした。講演者の打ち合わせ会で盛り上がった雰囲気をそのま ま伝えることができればと当日に望みましたが、コーディネーターの不手際にも かかわらず、期待した以上のワークショップになったことに、単純によろこんで います。参加された方々の熱気に感動しました。

 小田 利勝
  神戸大学発達科学部
  人間科学研究センター
  主専門分野:社会学

平 川  それでは、ワークショップ後半に入ります。後半は大いに ディスカッションをお願いいたします。

 本日は、理学部、国際文化学部、大学教育センター、本部および発達科学 部事務局からも、また多くの学部・大学院生の方がこのワークショップに参加し ていただいております。どうもありがとうございます。

 それでは後半は、企画提案者であります小田先生と稲垣先生にバトンタッ チいたします。よろしくお願いします。

小 田  演者の先生方もそうですけれども、恐らく話が非常に拡大 していっていろんな話になると思います。このディスカッションの場で何か結論 を得ようということは考えておりませんので、こんなことを言ったらちょっと、 というようなことがあるかもしれませんけれども、そのへんは気になさらずに、 たっぷり時間をとってありますので、どんどん発言していただきたいと思いま す。

 先ほど、質問票というものを用意しましたが、今の段階でこちらのほうに 1つも出てきておりませんので、まず、前半の部で各先生が講演なさった内容に 関して、ご質問という形でまず進めていきたいと思います。ございましたら、ど うぞ手をあげてお話しいただきたいと思います。ありますか、はいどうぞ。

三 浦(国際文化学部)  ちょっとほかの用がありまして、早く失 礼させていただきます。ちょっとお話しさせていただきます。

 私、国際文化学部の三浦と申します。文系と理系ということで、やはりち ょっと関係があるのかなと思いまして、発言させていただきます。

 文系と理系の共存はあるかということで、私自身はあると思います。その 場合、今までお話しされた方は、そもそも文系と理系、どこが違うのかというこ とに関しては、必ずしもその定義の違い、いろいろありますし、いろいろ問題あ ると思いますけれども、例えば学問の方法。文系もまた一応、私は1つの学問だ と思います。例えば法学と、あるいは言語学と生物学とどこが違うか。例えば論 文を書く場合、法学の人も言語学の人も、その対象自体は違いますけれども、や はり論理的に相手を説得する形で論文をきちっと書かないと、もう全然論文には ならないわけです。

 そういった意味で学問としてはやはり、いわゆる我々の思っているような 近代の学問というものは、論理的に相手を説得するという形で進めていくと、そ ういった面では非常に文系も理系もあまりないということになると思います。む しろ、それと対立させるんであればですね、これは結局、文系も理系も近代の学 問、西洋の学問ですから、むしろ西洋以外の東洋の学問だとか、例えば、中国だ とかイスラム世界の学問というのは伝統的に、いろいろあるでしょうけれども、 やはり暗記を中心としまして、わからなくてもいいから、とりあえず暗記してい くと。暗記する中でやがてわかっていくだとか。あるいはインドですと、50ぐ らい、60ぐらいになりますと、もう学問をやめると。学問は、やはりこの世界 のものであって、元気であってもやはりもうその年になりますと、自分の、仙人 のような生活をするのが、バラモンの学者として、物理学者であろうと、数学者 であろうと、やはり現代でも、生き方というか、学問に対する見方というような 形をとっております。ですから、そういったものとむしろ比較するのが適切かな というふうに思います。

 そういった意味で文系も理系も、西洋でずっと続いてきた論理学を中心と して相手を説得するという形で学問として成り立っているということなると思い ます。

 そこで、学問ですけれども、学問というのは何かということが非常に問題 になると思いますけれども、例えば数学、数学が理系の学問か、文系の学問かと 言えば、いろいろ問題あると思います。数学でも、物理学に近いものもあれば、 全く論理学、哲学に近いものもありますし、そういった意味であれば、かなり数 学は両方に属しますし、また、いろんな自然科学の現場においてもですね、個々 の人はやはり学会の中に、位置にいるわけですから、そういう学会にいって業績 をあげるために非常に細かいことを、論文をあげるわけですけれども、やはり 個々の先生方は、学者は、やはりそれは動機がありまして、やはり何か解明した いと、いろんな動機がある。そしてまた、それがどういう意味があるか、社会的 な意味。あるいは自分の人生においてどういう意味があるか。そういう問いかけ はやはり、大方の自然科学者もやっていると思います。それはまた、同じように して人文系の学者も同じようにやっていると。そういった意味であれば、学者 も、文系、理系というのはあまりないというふうな気がします。

 最近、環境学だとか、人間学だとか、そういったものが1つの学問として 成り立ちつつあるというふうに思いますけれども、こういったものは、実はもっ と昔から、何度もできる可能性はあったと思うんです。環境問題は昔からありま したし、人間を総合的に考えるという見方もずっと昔からありました。しかし、 今日、そういったものがようやく学問として成り立つことになったのは、やはり 社会的な要請というか、近代の学問が、特にこの科学方面からですね、科学が人 類にいろいろ大きな影響を及ぼし、とんでもないことになってしまっていると。 そういった意味で、社会的な要請から、新たな、今まで自然科学が今まであまり 扱わなかったというか、文系と理系を総合した形の学問を何か作れないかという 要請があってきてると思います。

 そういった意味で、社会的な要請もあるし、また、学問自体は非常に、結 局のところよく似てると。方法論が同じであり、対象は違いますけれども、文系 の人でも法律だとか、言語学だとか、社会学が文系かどうかわかりませんけれど も、そういったものでもやはり、思考実験だとか、頭の中で実験するということ もありますし、データを頭の中で入れ換えながら実験をすることもあるわけです から、そういった意味であれば可能だと思います。

 ただ、それが、ここの発達科学でどういう形で行われることかということ になりますと、ここの学部だとか、大学教育自体がまたいろいろ問題になってき ます。すなわち、後継者を、つまり、第1級の学者を作るのが目的なのか、ある いは社会に役に立つような、あるいは1人の人間として、学問を備えた人間を送 り出すというような意味合いかということになってくると思うんですけれども、 恐らくは、最近のいろんな新しい形で出てきている大学というのは、第1級のパ ラダイムを崩すような学者を養成するというよりも、そういったものもあると思 いますけれども、むしろ、社会の情勢を十分わきまえてですね、科学を行う。あ るいは科学のことを知らずにですね、生命倫理だとか、脳死の問題を解く人もい ますけれども、そういったものがないようにという形でですね、そういう人を養 成する必要があるという形で、社会的にも出てきているんじゃないかなというふ うに思います。

 ですから、そういった意味であれば、学問としても、教育としても、そう いった形であれば、例えば、1つのところで文学と数学ということを教えるとし てもですね、今までのように、個別の学問をかなり高度なレベルまで与えること はできないと思いますけれども、ある程度のところをおさえてですね、そしてま た、と同時に新しい学問というか、を作るためには、先生方のほうもですね、や はり共同で、今までの学術論文ではないような形の教科書を作るということが必 要になってくるんじゃないかと思います。

 パラダイムという言葉が何度も出てきましたけれども、パラダイムという のは、まさしくちょっと私に関係する言葉だと思うんですけれども、単に学問の 理論内容だけじゃなくて、それを取り巻くような社会情勢だとか、社会だとか、 団体だとか、そういったものを含めた意味合いを持っていると思います。ですか ら、教員側もそういったものにのっとって、例えば、自分の専門のほうの学問は 専門のほうで、とりあえず今の先生方はする必要があるかもしれませんけれど も、と同時にまた、新しいこれから作るような学問に関してはですね、教科書を 書いて、そして、その教科書にのっとった形で学生を養成し、そして、やがて次 の30年後にまた、結局新しい学問が作られるというか、そういう形になるんで はないかというような気がしております。

 今日、ごく最近、科学者は、科学者殺人事件というのがあります。すなわ ち1960年ごろから、近代科学というのは、あるいは現代の科学は、いろいろ 社会的に問題を起こしたので、科学はだめだ、だめだというような形で、それは 私の学問分野のまた責任でもあるんですけれども、そういったことをいう学問分 野であったがゆえにですね。だけど、実際はそういった形で実は最近また、科学 者たちが、いや、科学と文系はやはり違うんだと、自然科学と文系はやはり違う んだという形で、巻き返しというか、そういったものを図っている方もいろいろ 言えばしますけれども、やはり今後は文系と理系が、大学の、特に学部段階の教 育レベルではやはり融合して教えていくような学問分野が、すべてとは言わない までもですね、いくつかそういう大学があってしかるべきですし、また、発達科 学がそういう先生方、大勢おられますから、非常に私としては期待をしてます し、国際文化のほうから非常にあこがれてた学部であります。勝手なことを言い ました。

小 田  いえいえ、ありがとうございます。最初からものすごい話 になってきたような感じがするんですけれども、どうでしょうか。特別、個別の 先生方に、どなかということを指名しませんので、お話しいただける先生、どう ぞお話しいただきたいと思います。では、伊東先生、まずお願いできますか。

伊 東  社会的な要請があるということは非常に大切なことだと思 ういます。私はさっきの話では自分の夢、あんまり社会に役に立たない夢のほう を強調しましたけれども、実際に教育システムとしてこういう発達科学部という ようなところで、じゃあ何をするかということを考えると、やっぱり環境問題の ように社会的な要請がある環境科学だとか、それから、防災科学とか、そういう ようなところに、教育の重点をおいて、役に立つような人材を育てるということ が一つの目標だと思います。

 例えば、私は今ちょっと、地震予知計画というのにかかわっているわけで すけれども、その中で実際、理学として地震予知研究というのをするだけじゃな くて、工学はもちろんですけれども、社会学、心理学、経済学、そういったよう なものと協調しながら予知計画というのを進めるべきだということを口酸っぱく して言ってますけれども、なかなかそれは進まない。それは必ずしも、理学の分 野で地震学を研究している人たちの怠慢だけではなくて、じゃあ、そういうこと をやってくれる社会学者がいるのかということを見ると、例えば、あいまいな予 知情報を流すときに、社会で何が起こるのか、どういうような弊害があり、どう いうような利益があるのか、ということを真剣に考えるような社会学者というの は、数えるくらいしかいないわけで、そういう中で、じゃあ、人間が苦手な理学 者とそういった数少ない社会学者との協調というのができるのかというようなこ と。そういう社会学者がもっと生まれて欲しい。

 それから、もう1つは、そういうトップクラスの人だけじゃありません ね。実際に市役所とか、そういった自治体のところで、現場で働いている人たち の意識の中に、理学としての地震を理解し、それから、かつ行政官として、社会 のことを考える、そういった人たちが不足しています。そういった人たちを育て ていただきたい、そういうことは痛切に感じております。

小 田  はい、ありがとうございます。今、予知情報、あいまいな 予知情報を考える人が社会学者の中にいないというご指摘ですが、社会学者とし て私も大いに気になるところです。それでは佐藤先生お願いします。

佐 藤  今の三浦先生のお話の中で、第1級の学者を育てようとす るのか、もっと多くの総合的な知識を持った人たちを社会に送り出すのかという お話があったと思うんですけれども、文系とか理系の区別にこだわらずにちゃん と学んだ人を社会に出していくというふうなことのほうを少し優先させたという お話に聞こえました。その場合、入ってくる学生の中で、総合的な知識を学ぼう として入ってくる人もいるでしょうが、既存の何とか学をやりたいというふうな 感じで入ってくる人もいると思うんで、そういう場合の、彼らの専門教育を受け たいという気持ちは、どういう形で満足させられるのかなということを思いま す。それと、自分のレジメにも書いたんですけれども、たとえば人間学を学びた いと思ってやってきて、結局どれか選ぶだけだったという話があって、それは多 分、卒論とかの事情があって、どれか選ぶしかなかったと思うんですけれども、 三浦先生は、そういう形で多くのいろんな勉強させるという中で、そういう学生 たちの卒業研究とか、最後何かまとめのような課題やレポートを想定しないの か、それとも、やはりいろいろ勉強して、やっぱり何か1つ専門はもたせるとい うことを具体的なカリキュラムとしてお考えなのか、そこについての三浦先生の お考えをちょっとお伺いできればと思いました。

三 浦  きちんと卒論は書いていただきまして、やっていただけれ ばいいと思うんですけれども。

 1つは、きちっとして目的を持ってくる学生がいればよしろいんでしょう けれども、やはり今日でも、大学と受験生というのはかなり落差がありまして、 受験生は、こういう気持ちで入ってきたけれども実はそうじゃない、というのが いっぱいあるわけで、やはりそこは大学側は、ここはこういうことができるんだ と、あるいは、こういうことをやっていくんだぞということを示すようなもの を、たくさん情報を流す必要はあると思いますね。

 同時に、そういう形できた学生を、もし、これは程度の問題ということに なると思いますけれども、つまり、学際的といっても、何から何でもやるという ことじゃなくでですね、やはり文系と理系を総合した形で、つまり、ともに文 系、理系といってもですね、人間を扱う理系であっても、最終的には人間、自分 自身が考えるものでありまして、また、自分自身の世界を、結局は、死後の世界 を考えるとしても、やはり生きてる人間が考えるわけですから、自分自身という ことになりますから、やはりそこは人間というものがある共通点があるわけで、 そういった中でどこに協調をおくか程度はあると思いますけれども、だから、そ ういった程度で学生にそれぞれ合わせることも可能でしょう。

 つまり、今までのように、もうこれは文系的なものだからだめだとか、こ れはもう理系のあれなんでだめだと言うんじゃなくて、やはりスタッフも大勢お られると思いますから、そういった中で、ある程度の、0か1じゃなくて、1.5 とか、1.8だとか、そういう形でいろんなことを学生に与えて、そして、その次 のやがて20年30年後にその学生がそういったものをもとにして、我々が持っ てるようなものとは違うような学問というか、そういったものを築き上げてくれ るんじゃないかというような気がします。

小 田  では、三上先生、お願いします。

三 上  ここでこういう話しているとたね明かしになっちゃうん で、特に大学院生、学生の方にはこんなこと言っていいのかどうかわかんないで すけれども、「私はこんな勉強がしたい」というふうにおっしゃる勉強熱心な学 生、大学院生の言うことを、僕は信じません。

 なぜかというと、学部の学生、大学院生のマスターぐらいまで、ずっとつ きまとうのは、より論理的に整除され、体系化されたものがビューティフルだと いう信念です。私、先ほど、「学は科学ならず」と言いましたので、その点で言 いますと、支配の中核にあるものが最も整除され、最もシステマチックで、最も ビューティフルで、秩序性に満ちているんです。問題は、そのようなものをどれ だけけ強化し、保存しようと思っても、保存しきれないところに社会というもの のダイナミズムがあるわけですから、その意味では、非常に整除された知識を、 あえて挑発的に言えば、受験知のごとく互換性をもって整除された知識を誇った り、それをベースにしてものを考えようとする学生を、私は信じません。そうい う方は、別途そういう科学ではない学というものはほかにございますから、そち らへどうぞといいたい。

 今、なぜ発達ということが社会的に意味を持ってるかというふうな設問に 対して、へたくそでもいいから、地球ということを考えたら自然科学と社会科学 の両方にまたがるんじゃないかというふうに、どこかつなぎ目をもってこれるく らいの感覚と、いったん自分で見つけたと思ったらそれに執着して2、3年は考 えてみる、というふうな試行錯誤をやるという学生のほうが、むしろ私らとして は尊重すべきではないでしょうか。

 私自身は、受験知というものについて、あんまり知性として高いものだと 思ってませんのです。特に、神戸に来て2年目でけれども、その間、一番腹が立 ったのは、整除されたものがビューティフルだという感覚の学生に直面したとき に、私の一生が無視されるようで非常に苦しかったです。

小 田  大学院生、学生の人、いますか。今、先生のところの院生 ですか。違いますか。どうですか。ぜひ話を出してほしいと思うんですけれど も。

橋 本  何を話せばいいのかよくわかんないんねんけども。

小 田  ちゃんと聞いてないんじゃないですか。(笑い)

橋 本(発達科学部自然環境論コース3年生)  いや、聞いてます けど、自然科学をやっぱり志している、一応、発達科学部の人間環境学科の理系 といわれる自然環境論コースで学んでいるんで、やっぱり1つの体系立てた学問 というのを学びたいなあとは思っているんで、そう言われるとちょっとつらいな あという気はしますけれども。

小 田  いや、いいですよ。三上先生に嫌われても、俺はほかの先 生に好かれればいいと、そういうふうに答えてもいいんですよ。(笑)

橋 本  おっしゃることがよくわかるんで。確かに、だけど、今 回、さっきの4人の方が講演された部分で見ると、やっぱり僕らのコースの話と はちょっとかけ離れた部分の話が大部分を占めていたというか、自然科学を視点 にした話がちょっと少なかったかなという感じがするんで、何とも言えない気が するんですけれども。僕としては、やっぱりもうちょっと体系立てた学問を学び たくてこのコースに来ましたけれども、どうなんでしょうね。

城  発達科学部への改組の前後に、同様なテーマで論議した時代の ころを考えますと、発足当時から比べたからすごく意識が変わっているなあと思 います。

 1つは、自然科学系の方法の中でも、人間環境を考えていくという視点は 少しずつ育ってきているように思いますが、もう1つ言いますと、発達科学とい うところの部分がどうなのかと。多分やってないです、全然。発達科学なんてこ とやってないんですね。それを心理でやっているかというと、やってないんです ね。紀要にもないし。そういう意味でいきますと、発達過程なんてやっているの は全然いないですよね。しかも、心理の側からすると、もっと縦断的にやらなき ゃいけないという意識はあるけれども、周りも協力してくれないというようなこ とだと思うんですけれども。

 発達科学という学部ができているわけですから、三上先生がおっしゃった ようにね。その発達科学部の中でそれぞれの専門とおっしゃるけれども、それは 何がかめるかということ、やはり真剣に考えていかないと、切られますよという 話だと思うんです、やっぱり。学部の存続なんだから。それを個人的な研究者の 興味で語っていいのかなというふうな、私はちょっと疑問に思うんですね。変え ていかなきゃいけないんじゃないですか、やっぱり。それを最初のところで提起 したら「それは学問じゃない」と言われて、すごく批判されたんですね。「そう いう問題解決型の学問なんてのは、だめなんだ」という話をされちゃって、当 時、自然科学的なパラダイムからすると、ナンセンスだという話になっちゃうわ けですよね。そんなものはもう学問的なレベルに、とてもじゃないけれども上が らないという形でもって今日まできたと思うんですよ。

 しかし、現実に今、自然科学のパラダイムがもう崩れつつあるわけですよ ね。基本的にもう、自然科学のパラダイムは人文科学のパラダイムには乗らな い。これははっきりしてると。この話をずるずるしていくとすごく長くなっちゃ うので言いませんけれども、基本的に破綻していると思います。だって、人間の 行動ってのは日々変わっていくわけです。そして、その行動はすべて文化によっ て制約されているわけでしょ。当然、普遍一般の法則をいくらやったって、それ は適用できないわけですから。それほど人間はダイナミックな生き物だと思うん ですよね。

 そういうことから考えると、自然科学も人間を表現する一要素であること は間違いないんだけど、自然科学イコール万能だという考え方は、もう捨て去ら なければいけないと思います。

 そういう意味からすると、そういう新しいパラダイムシステムがきたとき に、うちの学部はその可能性を担っているんだと思うんですよ。阪大の人間科学 部ができなかったことができると思います。だって、理系もいるんだもん。ただ し、理系がそれだけのシフトをしてくれないと困りますよね。そういうことも含 めて、研究の俎上に乗せてくれないと、それは無理だと思いますけれども、今の 意識の状態のまま融合しても、多分あんまりおもしろい研究は出てこないなと思 いますけれども。

 ただ、発達科学という軸の上で、どれだけみんなが乗ってくるかというこ とを、早く制度の上で確立してほしい。奨励金、出していいじゃないですか。学 部長の予算で出してくれと、そういう要求をこの会でやろうじゃありませんか。 そういう話になっていかないと、もうプロジェクト研究などってセンターでいろ いろやってますけれども、来ませんもんね。そういうことだと思うんですよ。だ から、そこでやっぱりお金の問題とかいろんな制度的な問題として保障されてい く。そして、それが佐藤先生がおっしゃったように、いい研究として出てくれ ば、当然みんな集まってきますよね。そんなようなところに提起としていったら いいのかなと。制度的な問題として。

小 田  4年たって変わったということなんだけれども、その変わ った方向というのは、今、話があったような方向に変わったんですか。

城  だから、その専門的な立場から、まだ自分のデータは確保しな がら。それは人間の環境については、こういうふうなことがある程度関係すると いう程度のことですよね、まだ。だから、人間の発達ということを真剣に考えて どういうテーマが出てくるかわからないけれども、そこに自分の研究の方法論な りを、どういう形でシフトしていくかという具体的なとこまでいかないと、つま り、個人の研究を許していいかというところですよ。今のままでいいのかという ところを、学部が「ノン」と言わなきゃ、ずっとそのまま続いていきますよ、絶 対。どうなんでしょう。

末 本(発達科学部成人学習論講座)  同じようなことを言うこと になると思うんですけれども、私も発達科学部という名前をつけながら、例え ば、本を書くときに「発達科学」という本のタイトルの趣旨を説明できる人って いないと思うんです。だから、そういう意味では、城さん言うように「作らない かんのだ」というのはもっともなんだけど、作ろうと思ってもできんという話を しているわけで、そのへんで、どうやってできるかという話をやっぱりすべきな んです。

 その意味で言うと、小高さんが言っているように、いろんな分野の切り口 から入ってはいても、やっぱり学問という名前で総称される職業についているわ けで、その固まりとして何ができるかという話なんだけれども、何を問題にして いくかという、問題群というものを何におくかというところが一番大きいと思う んですね。そこがやっぱりはっきりしていない。その意味ではやっぱり、やり方 というのはプロジェクト研究というのはもっともなことだと私も思うんです。

 それで、せっかく4人の、前に座っちゃったんだから、1人の方、ちょっ と別の学部で申し訳ありませんけれども、この際、すいませんけど、もし、そう いう意味でプロジェクト研究というのをしようと思うんだとしたら、どういうテ ーマが考えられるのか。その場合、ちょっと3つばかり条件をつけさせてほしい んだけれども、答えにくいと思うけれども。

 1つは、こういう学際的とかいろんな総合的なという、こういう傾向の学 部というのは、最近、はやっているんですよね。その特徴というのは、例えば、 慶応の政策科学部ですか、藤沢にできたやつ。あれは理系が入ってるんですね。 つまり、政策科学というような、非常に現実に迫っている課題のほうに近づいて やっていくというようなまとまり方というのは、1つの形だと思うんです。だけ ど、あそこがどんなふうな学問を作ろうとしているかというのはよくわからない んだけれども、これは最も俗っぽい言い方で言いますと、私もいろんな審議会に 入ってやっているという反省をこめて言うんだけれども、現実にインターディシ プリナリとは言ったって、現実がそもそもが複雑な現象なわけだから、それを政 策として何らかの形を与えていこうというときにですね、それぞれが持っている 学問的な知識の断片を張りつけていくだけに過ぎない。そういうことがあると思 うんです。だから、そういうある意味で政策科学的なここの学部も、特色という ものを背負っているというふうに私は思ってるんだけれども、そのへんの落とし 穴というものをどういうふうに克服できるか。

 2番目は、これは実体験なんだけれども、私の所属している成人学習論と いうところだけで言っても、社会学者がいたり、教育学者がいたり、いろいろい るわけで、結局、似たようなことを小ちゃくした規模で行っているんだけれど も、それぞれが、これが正しいと思っていることを言わざるをえないというとこ ろでやっていって、全体としてはこの成人学習論というのがあるような、そうい うフィクションを信じようとしながらですね、信じきれずに話をしているわけな んだけれども、学生にしてみると、これは非常な混乱なんですね。みんな基本に あるディシプリンというものが違ってて、それをその成人学習論というくくり で、ともかく何かまとまろうというそういうあがきをしているわけですね。これ は要するに違う言葉で言えば混乱だと思うんです。

 学生に対する責任としては非常に心苦しいんですけれども、そういう中で やっぱりある系統だった体系というものを模索せざるを得ない。そういう新たな 体系というものがどんなふうに出来上がっていくというふうに考えながらプロジ ェクトというのを提案できるかという。前に行かなくてよかったと思ってるんで すけど。

 3つ目はですね、これで終わりにします。三上さんが言ったように、パラ ダイムという言葉もちょっと使い方の規模がいろいろでわかりにくいけれども、 いずれにせよ、わかりやすい言い方、25年で学問は古くなるという、これは非 常にわかりやすい、よかったなと思ってるんですけれども。

 私も学問に入ってもう25年ぐらいたちますんで、私も先生からやっぱ り、切れないかんな、ということを考えながら話聞いてたんですけれども。これ は冗談じゃなくて、自分の学問とする分野でも、やっぱりそれを肌で感じるよう なところがたくさんある。私は三上さんと同じ領域の研究をしているからよけい そうなんだけれども、何で今、学問のパラダイム論というものが出てくるかとい うこととも同じなんだけれども、そういう実体験的に感じている学問の再創造と 言うんですか、新しいものを作るべきときにきているというそういう実感という ものが、それぞれの学問の領域にどんなふうな分布しているのかですね。要する に、学問というところに足をおいて、みんなで、そこで、ある種のカオスみたい なものを共有しながら、何に向かうかという議論をせざるを得ないわけだけれど も、エネルギーの源というのは、やっぱり新しいものに向かおうという、そうい うところからしか出てこないんじゃないかと思うんです。

 その点で我々が、分野は違うにしても、時代もこんだけ変わってきてです ね、しかも、21世紀という、これはどうでもいいけど、いうところにきている ときに、我々の足元に一体何が渦巻いているのかという、そこの部分の共感とい うものをどうやって作れるかいうようなことが大事じゃないかと思うので、その ようなことを含めてちょっと最初に戻りますと、プロジェクト研究のテーマとい うものをお示しいただけるとありがたいと。

小 高  すこし脱線するかもしれませんが,私は今,発達科学部の 博士課程の設置計画委員会のメンバーで,いままさに進行中の話しなんですが, 今日も冒頭に,学部長がその件で本省に行かれているとのお話しがありましたけ れども,実はその構想の段階で,博士課程の理念をどう考えるのかというところ で,やはり同じ問題が出てきたわけですね。ちょっと事情をお話しをしますと, 神戸大学には既に文化学研究科があるわけです。本来,文化学の改組という形で 構想すれば,財政的にも理念的にも,そして歴史的にも非常にわかりやすいと思 うんですけれども,これまでなかなか文学部の方が動いてくれないという事情が あって,発達科学部と国際文化学部だけで独自に,文化学とは違う理念を掲げて 構想していかないといけない。これが非常に難しい問題なんですね。そのあたり は,考える方もよくわかっておりまして,理念を考えようとするのだけれども, 考えれば考えるほど,文化学に吸い寄せられてしまって,そのような理念は文化 学が担えばいいでしょ,ということになってしまう。考えれば考えるほど,文化 学と並立して我々の総合人間科学研究科博士課程を立てなければならない理由が 希薄になってしまう。もうジレンマに陥っていたわけですね。

 ところが,本部や本省とのやりとりの中で,「独自性は何だ」,「似たよ うな他研究科や他大学の大学院との違いは何だ」,「特色や理念は何だ」,「社 会的ニーズはあるのか」というふうに,やいのやいの言われるわけです。それは 当然のことでして,また対大蔵省との予算折衝でも,そこのところを突破しない と,文化学があるじゃないですかという話しになってしまうのは,もう目に見え ているわけですね。そこでちょっと内輪の話しをしますと,今日,伊東先生のお 話しに出てきました『複雑系』を前面に出すとか出さないとかですね。これまで の近代科学のパラダイム,つまりよく言われていますが,要素還元主義と因果律 をベースにした考え方なわけですけれども,もうそういう考え方ではものごとの 解明にはつながらないんだと。そういう意味では,そもそも人間や人間社会とい うのは複雑系そのものなわけですから,先ほど相互作用というのがありましたけ れども,他者との関係性と言いましょうか,そういう関係性を所与のものとして 取り入れ,そういう関係性の中でつねに他者を参照しながら行動する主体として の人間ですよね。そういった観点,枠組みから人間というものをとらえていく, そういうふうな理念を出したらどうかという議論があったんですが,ただやはり 現実的に,非常に大きな反発じゃないですけれど,複雑系の考え方そのものに対 してもまだまだ否定的な見方をされている研究者も大勢いるし,またここの組織 において実際に,意識の上でも,また具体的な研究の中においても,そういう枠 組みから研究されている方がどれほどいらっしゃるか,といったような自己評価 をしてしまうとですね,そういう理念を前面に出すには余りにもリスクがあっ て,二の足を踏んでしまうといったような状況にたちまちなってしまうわけです ね。というわけで,複雑系という文言は,理念のところに慎重に,さらっと触れ ているんですが,そこのところの事情のために,結局第三者が見たときに,理念 とか目的とかが意味不明瞭にならざるを得ないんですよね。そのあたりは,実は 本省もある程度わかっているかもしれません。ですから,結局は社会的ニーズに 対応する形で構想せざるを得ないんじゃないか。大学というものが,言葉は悪い かもしれませんが,すべて社会的ニーズに対応する形でものごとを進めてよいも のかどうか,実学ではなく虚学としての学問の進め方もあるんじゃないかという 指摘も当然あるのでしょうけれど,財政難の折り,政策的,戦術的な話しの持っ て行き方をしないと,設置そのものがですね,流れてしまうといったような事態 になり兼ねないわけです。これが前置きだったんですが,末本先生のご質問,ご 指摘の条件を満たすようなテーマということですが,正直申し上げて難しい。よ くわからないとしかお答えできません。つまり全然答えにはなってないと思うん ですが,末本先生のおっしゃった一番目の条件のところで,インターディシプリ ンというお話しが出ましたが,私はインターではなく,トランスにならないとい けないと思うんです。ところが,そのトランス,つまり融合的な研究というのは 何なのか,融合とはどういう状態なのか,そのプロセスは何なのか。先ほど城先 生の方から,近代科学のパラダイムでは,理系と文系の融合なんてどだい無理な んだという指摘がありましたが,私はそこのところに非常に興味があるんです。 例えば,アメリカのサンタフェ研究所,複雑系の研究所として世界的に有名なと ころで,領域をこえたワークショップがさかんに開かれているようですけれど, そこではどのような議論がなされて,もしパラダイム間の融合があるとすれば, どのようなプロセスでそれが進んでいくのだろうか。トーマスクーンの「科学革 命の構造」という有名な著書がありますけれども,閉塞状態をブレイクスルーす る,なにか新しいパラダイムが台頭するときには,どういうふうにそれが進行す るのか,といったことに大変興味があるんですけれども,サンタフェに関して少 なくとも私が目を通した本に関する限り,そこのあたりがよくわからないわけで す。ですから,知識の張りぼてというのはよくないと思いつつも,じゃあどうす れば単なる張りぼてでなくすることができるのか結局よくわからない。ですから 私としては,新しい学問の体系といったことも含めて,最初の段階からあまりそ ういうことは意識せずに,とにかく走りながら試行錯誤するしかないのかなとい うふうに思っています。二番目,三番目の条件,ちょっと忘れてしまいました。 これくらいにさせて頂いて,ほかの方のご意見をお聞きしたいと思います。

小 田  はい、ありがとうございます。

伊 東  先ほどの城先生がおっしゃったこと、全く同感なんですけ れども、自然科学的パラダイムが、ある意味で破綻を来たしている。だけれど も、ほとんどの自然科学研究者は破綻を来たしているなんて全然思ってません。 実際に破綻を来たしていない分野、非常に大きな分野がとうとうと進展している ことも事実です。

 じゃあ、その破綻を来たしている自然科学的パラダイムが崩れたとして、 それにかわるものがどうなるかというと、ある意味で一つの夢物語を私は話しま したけれども、だけど、それにかわるものはまだできていない。じゃあ、それが どういうふうにして生まれるのかといったら、私は、プロジェクトとか共同研究 とか、そういうものでは生まれないと思います。パラダイムへの変換というの は、やっぱり数少ない、ある意味で天才的な研究者がきっかけを作って、それ が、ああ、そういうふうにすればいいのか、ということがだんだん広がっていっ て、パラダイムの変換ができるんだと思うので、共同研究とかそういうようなこ とは、パラダイム変換という非常に高いレベルでのことに関しては、何も役に立 たないだろう。

 だけど、そんな大げさなことでなくて、この発達科学という名前のところ でプロジェクト研究というのをするとしたら、私が感じるのは、「時間」という ことを軸にするようなところで特色を見いだすことが一つの道じゃないか。例え ば理系だったらば、エボリューション、進化というようなことを、何も生物進化 に限りません。時間を軸にしたような理系の教育。それからまた、人間科学のと ころでも、まさに発達、成長、そういうような時間を軸にしたような分野、それ が特色にできるとしたらば、一つの特色になるんじゃないかなと、そういうふう に感じました。

小 田  ありがとうございました。

佐 藤  城先生のお話と末本先生のお話をうかがって、先に末本先 生のほうのことについて少し考えたことを言いたいと思います。

 どういうプロジェクトをやるかということで3つほど制約をつけてのご質 問だったと思うんですけれども、僕のほうでとりあえず制約を抜きにちょっと考 えたのは、レジメの中にのっけたような、神戸の事件を受けての子どもの健全育 成だとか、快適な高齢化社会の実現とか、大災害に対する予防と対策など、そう いう大きな問題。先ほどの城先生のお言葉を借りれば、問題解決型のこと、そう いうのをやっていくということがいいのではないかというふうに思っています。

 知識の断片の張りつけをどう克服するかとか、方法論の違いをどうするか という問題はあると思うんですけれども、それは先ほどのレジメの中で言った、 研究プロデューサーみたいなしっかりした人がまずいてくれれば、常に方向性を きちんととった舵取りをやってくれれば、いけるんではないかと思っています。

 それから、あとは、現実にある問題をまず取り上げるということが大事な んじゃないかと思います。みんなが大事だよとか、それは困ったとか、何とかし なきゃとか、考えなくちゃいけないとか、そういうだれもが気がついている問題 というのは取り組みやすいと思うんです。研究者とか最先端の学者でなければ気 がついていないような問題とかは、なかなかむずかしいと思うので、現実に、今 ここにある問題をまず取り上げてみると。そして問題提起のところで、結局何を 焦点としてやっているのかというのをかなりしっかりさせておいてやると。現実 の目を通していけば、その断片の張りつけとか、方法論の違いでこうやれないも のを、こうやれるんじゃないかと思います。

 ですから、たとえば先ほど説得というふうなお話が出てましたけれども、 普通の人にわかるように中身ができていれば、そういう1番、2番の、知識の断 片の張りつけの問題とか、方法論の違いを克服できるんじゃないかと思います。 だから、研究をしたあとで、こういうふうな形の公開シンポジウムとかをもっ て、普通の人に話して、普通の人が「なるほど、わかった」というふうなことを 言ってもらえる。そういうふうなことを意図して研究をしていけば、多分、知識 の張りつけだとか、ほかの人に全然わからない研究とかにはならないんじゃない かと思います。実験室の中での話とか、研究者の頭の中の話ではなくて、具体的 にその現実の問題をとらえて、現実の目を通して、今ここで生きている人がわか るような形で研究を仕上げていけば可能なのではないかということを思います。

 それから、城先生のほうのお話を聞いてなんですけれども、学部の存続、 あるいは発達科学というものを本当にやっていく気があるんであれば、個人の興 味とかで語ってもらっては困るんじゃないかというふうなお話だったと思いま す。

 それは、もし発達科学というものをきちんとやっていくんだということ を、それを真剣に取り組むのであれば、確かに制度的にきちんと支えて、発達科 学の研究というものを、いやだとかわがままを言ったりするのをおいていて、ま ず必ずやるんだということで押してやっていかなければいけないのかなという気 もしてきました。たとえば、3年間は自分の研究をするなという形とかにして、 徹底的に発達科学の研究をみんなでやっていくんだというふうなぐらいにやって いくとできるのかもしれないと。

 個人の興味で語っている場合ではないというのは、非常に大きいお話とし てちょっと胸に刺さるというか、深く残ります。

城  小高先生にも関連することなんですけれども、そのときにです ね、自分のバックボーンになる学会等の、例えば自分で論文書かないといけな い。そこへ、ちょうど自分の興味、関心でもあるわけですけれども、そこの部分 の制約と、現実的に立ち向かっていくべきプロジェクトがあるとして、そこはう まくシフトできないんですかね、やっぱり。つまり、学会はそういうものは論文 としては認めないというようなことになってしまうわけでしょ。そこらへんの両 立がもしできれば、いいわけですよね。

小 田  ちょっと介入していいですか。

 それはやはり、それを認める学会で発表しなきゃ、僕は意味がないと思う んですよ。僕もそういう経験を何回もしているんですよ。これはやっぱり自分が シフトとして、そっちでということになると思うんです。だけど、あえてそっち も保持したいという人は、それはやればいいと思うんですよ。

  だから、例えば、心理のような場合は、僕、できると思うんで す、まだ。ただ、図形科学の雑誌にそういうことを書けるかどうかは非常に疑問 だけれども、そういう潮流をまた起こすことも大事だと思うんです。

小 高  私の個人的な話しで恐縮なんですが,潮流は起こすことは できると思います。ただ,図形を扱っているわけですから,図形から離れてやる と「なんだ」ということになるかもしれません。私としましては,先ほどのスピ ーチのときにも少しお話ししたんですけれども,発達科学部の方に来て,新しく 領域を広げていかないといけないという,そういう意識は人一倍持っている方だ と自負しておりますので,まだまだ質は低いのですが,感性とか,感情とかです ね,実技系,芸術系の先生方がいらっしゃるというところで,必然的にそのよう な問題設定が出てくるわけなんですが,そういったテーマで学会発表をしていま す。ただそれは,私の本来の学会ではなくて,具体的な名称を申し上げますと, 映像情報メディア学会というのがありまして,旧テレビジョン学会なんです。こ れだけ世の中にマルチメディアが浸透してきますと,やはりインターラクティブ な情報のコミュニケーションをどう実現させていくのか,一方で,そういうもの の進展によって進行する人間性の希薄化,疎外化にどう対処するのか,といった 問題意識がそのような学会内においても当然出てくるわけですね。そういう意識 の上に立って,本当に,感性豊かなといえばちょっと抽象的ですけれども,より 人間に密着した形でのマルチメディアの技術,システムあるいはネットワークが どうあるべきかといった議論や取組みが,電気通信学会や情報処理学会なども含 めてどんどんやられるようになってきている。依然として,参加者の多くはいわ ゆる工学の電気・電子系の先生方が多いんですけれども,最近は,工学や理系と いったジャンルにとらわれないいろいろな領域の研究者に参加してもらって,ま ったく違う観点から領域をこえた交流が必要だという雰囲気が確実に大きくなっ てきているわけです。実は,私や身体表現論講座の柴先生などが,そういう学会 へ参加して,一見なんの関係もないような,例えば,身体表現と感性とか,映像 表現における感情・感性とか,あるいは映像表現に関するイメージの分析とか, そういうふうなタイトルで好き勝手にお話しをさせていただいております。です から,他の領域の学会へ顔を出して,そういう取組みは,まあ自分なりにやって はおります。ただ,結局安易な研究に流れてしまうという指摘があるのも当然 で,そのあたりをいつも自戒しながらやってはいるんですけれども,まあ私の基 本的な考え方は,先ほどもお話ししたように,そんなことやっても意味ないよと か,何もわからないよとか,と言ってしまってはおしまいなわけで,冷たい視線 や誹謗・中傷を受けながらもまずは動くことが必要だろうと。そして,そういっ た取組みに対する評価というのは,歴史が下すもので,残るものは残るし,淘汰 されるものは淘汰されるだろうと思うわけです。そういう基本的な姿勢で,とり あえずやっております。

三 上  城先生と末本先生の発言というのは、これはまあ言ってみ れば挑発でありますので、文字どおりそれに答えていくとすると、この学部自身 が、実験学会なんだというしかないと思うんです。それはどういうのかと言うこ とを、もう少し体系っぽく言います。

 まず、教育という観念と発達という観念と、中心に据える言葉が違うこと によって何が起こっているのかということを、かなり文献学的に説明する必要が ある。まずは、教育というものがあったときと、発達ということをおいたとき に、どこがどう違ってくるかと言うと、これは完成した大人というものが消滅し ていくということです。そこからあとは末本さんの専門ですけれども、とりあえ ずは、発達という観念を中心に据えることによって、従来の教育制度を予定して いたような、かなり固定的な大人イメージ、制度イメージは全部がらがらと崩壊 していくということです。

 もう1つは、2番目が、先ほど伊東先生がおっしゃった時間というところ での基準を全体に及ぼして、ディベロップメント、エボリューション全部を含め て、私なんかの場合は社会発展という場合の「発展」というやつと「発達」とい う日本語を2つどうするかというのがあるんですが、そういう時間軸についての 共通検討であります。

 3番目は、やっぱり現に実験学部でやっていることは、ある社会制度を予 定しているんだということを前面に出していくということです。端的に言えば 「発達の制度」という言い方をすることができるんですが、これは一言で言いま すと、お勉強なんかしなくてもいい、そこに「居場所」があるだけでいいという 観念を、やっぱり我々がそういう観念のセールスマンになることだと思うんで す。

 大学も大学院も全部そうだと私は思っています。大学院生にとって一番重 要なことは、毎日学校へ来て、議論ふっかけたくてしょうがないとかですね、少 なくとも、どんなに攻撃されて立つ瀬がなくても、個人の机の上にいったらです ね、何か次のリポートを考えたくなるという居場所があるということでしょう。 そこまでやっていくという、いわゆる制度の設計論みたいなことをきちっとやる ことが必要です。

 4番目は何かといったら、人間集団ということとか、その中での表現、表 出したいかというふうな様々な行為について、今、全部見直すときにきたと思う んです。一人ひとりの人格主体性を絶対視する仮定を打ち破る時期に来たのでは ないかと思います。比喩的ですが、「さざ波のごとき人格」「さざ波のごとき主 体性論」という世界を切り開くことが必要になっている。これは私が言ってんで はなくて、見田宗介さんが言ってることなんでして、これは聞くに値する理論だ と思うんです。

 私は、今言った4つぐらいのテーマを少なくとも、小田先生の発議で単行 本を作るのでエントリーするとか、とにかく、志高くスタートするようにしない と、事は始まらないと思うんです。議論はりりしくやれというのがお二人の挑発 だったと思うんですけれども、少なくとも、やるべきテーマはいろんなところに あるような気はします。

小 田  非常にわかります。それで、ヒューマン・ディベロップメ ント・アンド・エイジングというテーマは、ヨーロッパでは非常に一般的なんで すね。これは、まさに発達が誕生から加齢までということになっていくと思うん です。そのへん1つの時間軸のアイデアかなと思って、私は高齢化を研究してま すので、そのへんは違和感がなかったんです。けれども、そういう意味での発達 科学部というのは、日本語にすると、ここ唯一なんですね。世界的に見れば、べ つに大して特殊な名称でも何でもないんで違和感はなかったんですが、今までの 議論の中でちょっと考えますと、どだい今の大学4年間、ある6年間で、体系だ った知識を得ようなんてことは無理だと、最初から。

 だから、発達科学部はもう、くそ断片的な、ばらばらなものをですね、学 生に提供して、「これから生涯かけて勉強していくことは、こういうことだぞ」 というものが提供できればいいんじゃないかというふうに一度考えたこともある んです。でも、そんなこと学生に向かって言ったら、だれも来なくなります。

 それから、もう1つはやはり、若いうちに基礎的な必要事項は徹底して理 解させて、覚えて、それからあと成長していく。さっき、優秀な人材、研究者を 育てていくのか、それとも、社会一般的に、今求められている人材を育成してい くのかという、そういう話がありました。伊東先生も、その社会的な要請に対し ての話がありましたが、私は、天才とか優秀な人材というのは、どんな教育受け ても、どんな場にいても、ある程度、勝手に出てくるんじゃないかなという気が するんですね。そうすると、ベースとなるのは、やはり今の社会をよくしてくれ る次の世代の人たちを育成していくというのが、人材育成機関としのて大学の機 能として1つあるんじゃないだろうかなと思います。その中でどんな研究しよう が、それは研究する側、教育する側は自由なんだけれども、少なくとも、教育機 関としての機能を果たすには、そのこを十分に考えないといけないのではないで しょうか。滅多にこういう話はしないんですけれども。

 ほかにどうぞ。ございませんでしょうか。

米 谷(大学教育研究センター)  2つだけ、長くならないよう に、まずポイントから申し上げますと、1つが、発達科学という名前を強調して やっといくと、私、個人的な、また経験論から言いますと、前の大学が学部を作 るときに、もう古い、どの大学かは言いませんが、ある私学がですね、文部省に もっていくときは「情報社会学部」にしたかったんですね。ところが、僕の恩師 は、名前は伏せますが、すごく有名な社会心理学の先生ですが、本当は「社会心 理学部」を作りたかった。落ちた。文部省は認めなかった。やっぱり何か設置審 の偉い先生が「社会学」という名前が好きなんですね。結局「社会学部」という 名前にせざるを得なかった。その「社会学部」という怨霊が残ったわけです。と ころが、初代の学部長は「社会心理学部」だと言うんですね。英語の名前がファ カルティー・オブ・ソーシャル・リサーチという名前にしたんですね。本当は 「社会心理学部」だと本人は思って「集団力学部」にしたかったんですね、ある 先生が。まあ、それはおいといて。

 問題なのはですね、そういう名前が出たあとで、その先生がいらっしゃら なくなった次の代の学部会、私もさんざんねをあげましたから申し上げますと、 いろんなところで、ここは「社会学部」であると。名前から入るんですね。「私 は社会学の専門家である。君は違うだろう」と。そういう名前論争をやったん で、僕はもう嫌になったんですね。だから、名前で議論をするのは僕はやめたい と思うんですね、まず。

 名前を作る前に何か意味があったはずですね、目的があったんですね。だ から、名前でやると多分そういう議論になって「じゃあ私は、それじゃありませ んから、さようなら」多分、そうなる人がかなり出てくる。優秀な先生ほどよく 出ていくという傾向があります。いつでも出ていきますよ、という格好をして、 やっぱり出ていくわけですね。確かにそれは、いいことなのか悪いことなのか、 いろんな議論があります。

 2つ目、今度はちょっと政策的な話なんですが、ちょっと議論はもうわか りますね、何を言いたいのか。2つ目の議論は、去年、スウェーデンへ行ってい ろんな大学も見てきたんですが、向こうではやっぱり社会民主党が政権とってま すから、国民のニーズにこたえない大学はできないんですね。ものすごく厳しい 状況です。実験大学を1つ見てきたんですが、古い大学はあまり金なくて、新し い大学はどんどん金取ってやってます。その大学の僕が見にいった学部はです ね、学部というか研究所内の「テーマ」という名前だったんですが、10年単位 で、プロジェクト名が学科の名前で、10年たったらというか、ある程度プロジ ェクトが終わったら学科が消滅するんです。そこで今やられてたのはジェンダー とエイジング、子ども、ハンディキャップ、環境、あとはコンピューターと技術 社会ですね。これのコンピューターと高度情報化が社会に及ぼすインパクトとい うのも新しいテーマで、私もちょっとからんでいますけれども、そういうふうな 新しいテーマでないと国民が許さない。そういうプロジェクトをやらない先生は いらない。何年かごとに評価がなされて、そのプロジェクトが消滅したときに は、その先生方も消滅する、ポストも消滅する、学生も消滅する。それが社会的 な評価があれば発展するし、どんどんどんどん変化していくわけですね。そうい うふうな形態に日本も多分なるだろうと思うんです。日本はそんな簡単にはなら ないと思うんですね。

 問題なのは、その発達科学部の名前はもう僕は問題にしたくないんです が、実質的な中味で、本気で文系、理系の合同をやられるんだったら、先ほどの 小高先生のお話ですが、僕はこれは、よそから来てこんなことを言うのは申し訳 ないんですが、僕も文化学という名前と文化学部のいきさつ、ごたごたの話で嫌 になっているところもありますので、申し上げますと、ああいう問題を越えてで すね、これからは文部省が、これならという形でいける方向性というたら、まさ にこれしかない。文系と理系を合同したですね、統合した何か新しい学問を作っ ていくという、それを名前に出したら、これは文化学の亡霊からというか、あそ この議論から逃げれますね。これしかないと思うんです。ただし、もう環境はだ めです。システムも、もうええ加減やめてほしいし。何するかというのが、先生 方皆さん、切れ者ばかりだと思うんです、知恵を絞って出すべき大事な。でも、 もうええ加減、「人間」もやめたいんですけれども。じゃあ、何かというのが本 当の問題なんです。来るべき社会を、何。未来学なんかという名前をつけるの も、東大で終わってますけれども、何かそういうことを本気になって考えないか ぎり、学科が存在しなくなると思います。僕は最終的にそこを、今、お聞きした いと思いました。

 どうもありがとうございます。

小 高  ちょっと逆に質問をさせていただいてよろしいですか。

 視察してこられた,非常に社会的な需要に対応する形で,プロジェクトが 10年たったら学科の名称も変わってしまうという話なんですが,そもそも大学の 持っている使命というものの中には,必ずしも社会的ニーズに合致したものじゃ ない部分もあるわけですね。そういうものに対する手当,保障というのは,ご覧 になってこられた国では,どういうふうになされているんでしょうか。ないんで しょうか。なくはないと思うのですが。

米 谷  むしろ、それはアカウンタビリティーの話ですから、この 学問、やはりいるんだということで、命がけでPRして残していくわけですね。 そのPRできた先生は生き残ると思うんですね。

小 高  ということは,より社会的なニーズがあるとか,よりない とか,いろいろレベルの違いはあるけれども,とにかく情報公開をして,こうい うことをやっているんだよと表明する限りにおいて,必ず拾う神がいるというこ とですね。

米 谷  そこははっきりしないですね。そこは、だれが審査するか というのと、国民が審査するのか、それとも、もう旧態依然の大学者先生方のみ が設置審で審査するかというのとの違いがあると思うんですけれども、日本も多 分変わると思うんです。そのままでは生き残れないと思いますから。ただ、そん な簡単には変化がないという、僕はそんな感じがしているんです。だって、例え ば、今言った心理学部はできないんです、まだ。

小 田  何か背筋が、温かくなるか寒くなるかという話になってき ましたけれども。

小 高  それと,文化学の亡霊という話なんですが,われわれは, 文系・理系の混成で新しい大学院を作っていくんだよとずっと言い続けてきたわ けですね。しかしそこのあたりを強調しても,どういうわけかうまくいかない。 結局,博士課程の構想に当然入っていただくなくてはならない理系の先生の多く は,自然科学研究科に行かざるを得なかったわけです。そして,いまなお,自然 系,理系の先生方が位置する講座については,いろいろとその成立を危ぶむ声す ら聞こえてくる。だから,強調したい特色を言えば言うほど,自分で自分の首を しめているところがあって,結局トーンダウンしてきているといった状況もある と思います。

米 谷  もうちょっと発言していいですか。

 某千葉のほうの大学ですが、独立研究科を見にいったとき「人間・総合・ 環境・社会・研究科」なんていう、もうポツつなぎの学科があるんですね。こ れ、もう文部省も見え見えなわけです。先生方ばらばらにやって、何ら統合的な ことをしないと、枠だけほしいという。これじゃ認めませんよ、多分。むしろ本 当に交流があって、そこから何かクリエイティブな総括的なものが出てくるとい う方向性がない限り、お金もつけられないしと思うんです。それは全体的な流れ と思います。

小 高  その方向性というのは,結局,実績をあげているか,つま り,発達科学部という理系・文系の混成部隊であってはじめて出てくるような新 たな研究の芽とか息吹というものが,この4年間にどういう形で具体的に実って きたのかということですよね。そういう問いに対して,指し示すべきものが何も なければ,結局は口先だけ,ということになってしまう。いまわれわれが置かれ ている状況はまさにそういうことだろうと思います。いや,新しい研究の取組み というのは当然なされていると思います。しかし,先ほど城先生もおっしゃった ように,本省に対してだけではなくて,まわりを説得できるほど大きい実体的な うねりとして,それが膨らんできていないというのが現状ですね。そこのあたり に対して,われわれはいま,非常に厳しい査定を受けているんだろうと解釈して います。

小 田  ということは、学部なら学部の名称にふさわしい「さす が」というようなそういう何か成果。その成果が、研究成果か、教育成果かわか りませんけれども、何かそういうものがないとだめだということですか。そうす ると、あと、先ほどのように、ポツ、ポツ、ポツ、というのは僕もいくつか知っ てますけれども、そのポツをつけなくちゃいけないということを主張される先生 たちは、何を守ろうとしているんですかね、そこまで。

小 高  今の小田先生のお話しですけれども,何かを守ろうとうい う,そういう非常にコンサーバティブな立場もあるんでしょうけれど,実はこれ と似た話が修士課程を作るときにもあって,人間と文化と環境をポツでつなぐよ うな名称案もあったわけですね。ただそれは,何かを守ろうということではなく て,人間や文化,環境といったキーワードを一語でうまく言い表わせるような上 位概念というものが見当たらなかった,といった現実的な理由もあったと思いま す。

小 田  学部があったらいけないんだね。大学一本、大学部。要す るに、いろんなことを探っていくと、どんな名称をつけたとしても、そういう事 態って起こるんじゃないだろうかという気はするんですけれども。それが発達科 学であっても、国際文化であっても。僕は最初「国文」「国文」て略されている ものだから、国文学部かと思ったんですけれども「国際文化」ですものね。 (笑)

伊 東  今までとちょっと分裂したようなことを言うかもしれませ んけれども、じゃあ、文部省のそういうような意向にそって大学の組織が動いて いって、それでいいのかというと、私はむしろ批判的なんです。私自身は、そう いう学際が好きだし、自分の好きなことをやってれば、総合科学なので、非常に 幸せな人間なんですけれども。だけども、例えば、理学部がどうあるべきかとい うようなアドミニストレーションの立場に立つと、例えば、理学、工学、農学、 そういったものを総合して1つの学部にしろというようなプレッシャーがあるわ けです。そうすればもっと大きくしてあげますよ、というような餌がついてくる わけです。だけど、私はそれには否定的です。私自身は、一緒になることで、多 分いいことがあるかもしれないけれども、理学として、これからの学生の教育だ とか、そして、研究者の研究だとか、そうしうことを考えたときには、やっぱり 専門的なそういった独立した自由なものの考え方を許す組織が残っていたほうが いいだろうと私は信じている。大分分裂しているんですけれども。

中 川(発達科学部自然環境論講座)  人間環境科学科では、実際 に文系と理系が共存しておりますから、こういう話を学部ができるころに一生懸 命やった思い出があります。

 当時、入試科目をどうするかというところから議論の発端は始まりまし た。城先生と机を並べて、口から泡を飛ばしながら議論をしたので非常によく覚 えておられると思いますが、私は理系2科目、社会2科目というのを主張したん であります。残念ながら、それは強い反対にあいまして、科目からして、入って くる学生の質からして、変わったのをとりたいというところから話は始まったん ですが、残念ながら、その案は大方の賛同を得られなくて、「これだけ文系と理 系が別れることによって発展してきたのだから、いまさら融合することはできな い」そういう論議であのときは幕を閉じられたというふうに思っております。

 それから、そういう経緯があったということがもう1つありますが、文系 と理系の融合というのは、言うは優しいんですけれども、実はむずかしいんです よ、という1つの例としてそのことを申しました。

 それから、3つぐらいのことを申したいんですが、2つ目は、自然科学の パラダイムはもう消滅しているんですよという話なんですけれども、ところがど っこい、自然科学の中でも自然科学のあり方というものにモード1とモード2と いうのがあるのではないかという問題提起がなされております。

 蛯名先生にかわってこのへんのことを申し上げておきますと、モード2と いうのは、いわゆる環境科学だとか、そういう必要性に迫られてやっていくよう な、あるいは直ちにそのことが、環境科学をやったってですね、例えばオゾン層 の破壊をやったって、化学反応として画期的に新しいものが出るかというと、今 のところ出ておりません。そういう直ちに化学の講座でやれないようなものをあ えてやっていこうという場合に、自分はモード1の、そういう前からのある学問 の上に業績を築くのか、モード2のサイエンティストとしてやっていこうとする のかと、自ら宣言してから、名乗ってからそういう研究を始めるべきだという、 こういう論が出たのは、もう93年ぐらいだと、私、理解しておりますが、もう 5年もたってまして、少しはそのへんの認識をしていただきたいという、そうい うふうに私としては思っております。

 あと、若干、末本先生の挑発にのった格好でプロジェクトの提案というの も、実は私は発達科学部が発足した当初に、ある程度呼びかけてみました。残念 ながら、全然実を結ばなかったんですけれども、それは宇宙という問題でありま す。私は、宇宙の放射線環境というのを研究の一部にしておりますが、その学際 性について少し申し上げますと、自然環境概論というのがあって、1年生の一番 初めに、最後に学生に向かってこう言うんですけれども、放射線の話を延々とし てきて、そういう放射線を浴びる限り、人間は宇宙へ出ると人間の進化の方向か らはずれていくと。それでもなおかつ、なぜ人間は宇宙へ出ようとするのかと。 それから、極めて小さな閉鎖社会の中で生きていく。例えば、そうすると、母な る地球のほうでは、アメリカの中で有色人種と白色人種の人口の比率が逆転する 日というのは2020年ぐらいにやってくると言われてますけれども、その前に アングロサクソンの支配権を失う時期がやってくる。そういうことが母なる地球 で起こっているときに、宇宙船の中でどういう社会規範が成り立つのですかと。 この中に、もし私の言ったことを覚えてくださっている学生の方がいてくれると 非常にありがたいんですが。だから「ちゃんとした社会科の教諭とか文科系の研 究者になってください。あなたがたが、ちゃんとそういう能力を身につけたら、 私と共同研究をやりましょう」こう言ってじっと待っているんですが、残念なが ら、学部の中で大分やったんですけれども、「現在のところ、そういう受け皿は ございません」ということで、けんもほろろに蹴られておりまして、そのへんは やはり研究者も、自分の興味にもならないことをやらないですからね。

 さっきの意識性の条件ですけれども、私は非常に身につまされて聞いてお りました。いくつか提案をして次々破れてきた経緯を持っておりますので、そう いうことを、でも、やっぱりあきらめちゃいけなくて、それなりにこつこつ続け ることがやはり大事なんではないかというふうに思っております。

 それから、時間の概念について最後にコメントをいたします。

 時間というのを、人間が生まれてから死ぬまでというふうに定義していた のでは、地球環境だとかそういう問題はとらえきれませんし、人類がどこへ行く のか、宇宙がどこへ行くのかという問題はとらえきれません。第一、フロンが、 今放出されたやつが、どういう影響を与えるのかというのは100年あとという ことになりますと、まあそれは、自分のこれは孫に任せておけばいいですよ、と いうことには絶対にならないわけでありまして、このへんのことを我々は判断を しなければいけない。しかも、環境工学と違って、環境工学ですと「分解しない 20年ぐらいもつフロンを作れば、それで当座の問題は解決するでしょう」と言 いますけれども、理学という立場から環境を見た限り、それは許されない。今壊 れないけれども、1万年たったらどうなるのかという問いに対して、ちゃんと答 を出なきゃいけない。そうすると、工学の世界では、人間は永久にビルディング をつくり、都市をつくり、何かほじくり回してエネルギーを何か創造しつづけな ければいけないんですが、理学の世界から見たときに、人間は今の活動をトーン ダウンすべきであるという答が出てくる。このあたりに、時間の発展というのを 見る立場というのが、どこかに我々独自のものがないだろうかという問題意識を 持っています。

 さらに、時間のスケールについても、150億年の間に人間というこの知 性が生まれてくるこの条件がどのようにして発達してきたのか、ということに私 どもは非常に興味を持っています。だから、そういう意味では人間の一生という のを時間の対象としてとらえられては狭いので、150億年とか200億年と か、そういうスケールで人類は、宇宙は、どう発達するのかという感じを、どう 発達してきて、これからどこへ向かうのかというふうにとらえていただくと、私 どもも仲間に入れていただけるというふうに思っております。

小 田  ありがとうございます。何か新しい学部名称として「地球 惑星・発達科学部」というのが考えられるんじゃないか、というところまで話が 広がったような。(笑)

 どうでしょうか。まだ発言されてない方、どうぞ、ご自由に。蛯名先生、 どうですか。

蛯 名  いろいろおもしろい話、いろいろ聞いてきたんですけれど も、企画者の立場で最初にもった素朴な問題意識の中で、まだあまり出てこなか ったことから少し質問というか疑問を出させて下さい。最初の佐藤先生の講演の 中である程度扱われていたテーマだと思うんですが、それは、先ほど中川先生か ら、モード1、モード2という考え方の紹介があって、それで、ギボンスとかい う人が言ってて、小林信一さんという方が紹介されてたんですけれども、モード 2といえどもですね、やっぱりモード1のトレーニングを受けるということが前 提にあるわけですね。つまり、モード2というのは、社会の中で起こってくるい ろいろなむずかしい問題、環境問題もそうだと思うんですけれども、常識の積み 重ねでは解決できないような困難な問題をどうやって解決するかということにな るわけです。それは、単なる素人、烏合の衆が集まっても解決できる問題ではな くて、そこに何らかのインジニーイティーというか、鋭い解決方法をとらなけれ ば解決できない。そういう鋭い方法をとれるためにはどういう人材が必要かとい うと、やはりその紹介の中では、モード1のトレーニングを受けた人間が、要す るに従来のディシプリンできちんとものを考えることができるようなトレーニン グ、研究をやる能力というものを身につけた人がいて、それで、その能力を向け る方向として、学問の中の閉じた、ディシプリンの中で興味のあるテーマではな くて、社会的な要求のあるテーマにその能力を振り向けるというのがモード2の 立場であるというふうな、私はそういう理解なんです。 そのときに、教育の場 で、学生を育てることを考えると、社会の中で素人が解決できることというの は、べつにここでトレーニングする必要なしに、もうおのずと解決されていくわ けで、特に解決能力の高い人を出すためには、それなりのかなりのトレーニング というか、厳しい思考力とか問題解決能力、それから、いろんな技術ですね。い ろんな道具を使いこなしたり、それから、数学を使いこなしたり、計算機を使い こなしたりとか、そういう技術を持って、しかも、それだけじゃくなて、統合す るビジョンというか、世界を把握するという視点も必要です。そういうものとい うのはやはり、かなり高度な専門的な知識を持たないと得られないのではない か。自然とか宇宙がどうなっているかという、先ほどの中川先生のようなそうい う立場に立とうと思うと、それなりの専門的な訓練を受けることが必要になると 思うんです。そういう高い専門性を獲得するというのは、従来、ディシプリンと いう形でいろんな専門分野をもって個別にトレーニングを受けてきているわけで す。 最初、私がこの問題を企画した1つの動機は、ここで総合学部ということ で総合的にやろうとしたときに、総合学部の場でそういうトレーニングというこ とが一体可能なのか。やっぱり個別のどこかにとりあえずは属して、そこで訓練 を受けて、そこの分野の人間になった上で出ていかないといけないのか。そのへ んのところが私としては最初の問題提起のときにあったと思います。そのへんに ついてどうお考えかということを少し議論していただけるとありがたい。

小 田  どうでしょうか。

佐 藤  今の蛯名先生のお話についてですけれども、僕の場合は、 やっぱり古いというか固いんだと思うんですけれども、やっぱり高い専門性とい うのは、まず個別にトレーニングして育てることが必要なんじゃないかと思いま す。

 それは、まず最初は型を覚えるということをしたほうがいいんではないか と僕のほうでは思っています。現象をどうやって見るかとか、問題をどういうふ うな形で研究目的として絞るかとか、あと基本的な方法論とか、そういうことは やっぱりまず教えてもらわないと、いきなり「いろんなことをやってごらん」と いうのは無理だと思うんです。いろんな問題とか何かを感じている人でも、それ を研究の問題提起や目的にもっていくには、かなりトレーニングを受けていたほ うがいいと思います。情熱が高い人がまず、研究スタイルというか、型を1回マ スターすることが必要ではないかと思います。その型をマスターしたあとで、そ れを使って自分本来の形として論文にまとめていくということがスタンダードで オーソドックスだと思うんで、自分もそうやって育ってきたところがあるので、 それでいいのではないかと思います。

 先ほど国文の先生もおっしゃってたと思うんですけれども、いろんなこと を勉強したほうが、やっぱりいいと。総合的にいろんな問題が解決できるよう に、いろんなことを勉強しておくのがいいんだということがあったんですけれど も、でも、やっぱり最後、何か自分のほうで1つの方法というのを持ってるとい うのは、考え方の方針として、やっぱり武器になると思うんです。それはやっぱ り身につけたほうがいいような気がします。

 それを2つとか3つとか学ぶことはできないかというと、できなくはない とは思うんですけれども、最低でもまず1つということで、1個をまずおさえて おくというのがいいんじゃないかと思います。2年生、3年生、4年生の間に2 つとか3つ、身につけていくということも可能だし、それがAとBとCというふ うな方法論がぶつかって、自分が混乱するとかっていうことも、そんなにはない とは思うんですけれども、でも、一度に3つというのはむずかしいと思うんで、 まず1つ固めて、型を身につけて、それから、自分の形へというふうにしていく オーソドックスなやり方でいいんではないかということを僕は思います。

小 高  いまの佐藤先生のお話しと,先ほどのモード1,2の話 で,きちっとした個別の方法論を身に付けた上で,次にベクトルの向きを変えて いくということなんですが,それがいいのか。もちろん,きちっとした個別の方 法論を身に付けるというのは重要なことなんですが,その順序を問題にしたいで すね。先に個別の方法論を徹底的にやってからベクトルの向きを変えていくのが いいのか,それとも,最初は特に個別の方法論の訓練を受けずにいろいろなベク トルがあるんだよということを示しておいて,そこまでが学部のレベルになるの でしょうが,修士,博士と進むにしたがって,少しずつテーマと個別の方法論を きちっと押さえていくのがいいのか,と考えますと,私は後者のほうがいいと思 います。それはなぜかと言いますと,実は,私は10年ほど企業勤めをしていまし て,航空会社に勤めていたんですが,そこは最初は半官半民と呼ばれていた会社 なんですね。それがたしか1985年だったと思いますが,完全民営化になりま した。ところが,民営というものの意味がよくわからない。つまり,すっかり半 官半民の体質が身にしみついてしまっているものですから,はい今日から民間で すよと言われても,いったい何が違うのか,何をどう変えればいいのか,発想が なかなか変わらないわけです。つまり,諸刃の剣なんでしょうけれども,個別の 方法論を徹底的にやるのは重要なんですが,それを徹底的にやればやるほど,逆 にその呪縛から抜けられなくなるといった危険性もあるんじゃないかと思うわけ です。従って,学部だけじゃなく,大学院も含めてトータルに考えたとします と,最初は幅広くいろいろな見方や考え方を学んでおいて,上に進むに従って個 別の方法論をきちっと押さえていくというのがよいと私は思います。

 

米 谷  僕は大阪大学の人間科学部ができたときに、それを目指し て入って、第3期卒業生なんです。僕は今の25年、この前、僕のボスが退官し たばっかりなんですが、その先生が終わったときの僕の感想です。べつに母校に 対する批判じゃないんですが、まだ人間科学を教える先生はいらっしゃいませ ん。

 なぜかというと、というような話になるんですが、つまり、1つの学問に 固執してきちっと論文をたくさん書く先生ほど残りやすいし、いいポジションに 早くつくんです。それはそうなんです。でも、それじゃだめだ、というふうに僕 は教わったんです。人間科学ができて3年目ですが、僕が最初習った先生、人間 科学の諸問題というところではですね、森昭と田中正吾と前田嘉明という先生が 熱き思いで僕の前で何を言ったかと言ったら、とにかく個別の学問を、自分の学 問の問題ばかりで、個別の問題ばかりを問こうとしているから現実問題が一向に 解決できないんだと。だから、21世紀、人類が残るかどうかわかんないような 状況になったのだと。だから、学際性しかないのだと。これを強く言ったんです ね。君たちは、それぞれが別々の専門をやるかもしれないけど、そのスペシャリ ティーを持ちながら、ほかの学問分野と問題性においてリンクさせて現実問題に 対処していかなければならないんだ。だから、人間科学を作ったんですよ、とい うような話だったんです。

 僕はこの話だけで、いまだまだアイデンティティー欠如してますけれども 「何、あんたの専門、何なの」と相変わらず聞かれてます。でも、僕はそれでい いと思ってるんです。そのあともういろんな先生につきながら、お前も早いと こ、まとめないかん、まとめないかん、とあれこれやってますけれども、まあそ れはおいといて、問題なのは、一言で言うと初期発達、すりこみなんですね。 「あなたを誹謗するわけじゃないですけれども、学際性、うさん臭いよ」と言わ れて育っていくんです。だから、まともな学際的な研究者が生まれないし、そう いうチェーンもできないんです。僕は、発達科学部でももちろんやられていると 思うんですが、作った先生方は責任持ってですね、最初の2年間ぐらい徹底的 に、嘘でも風呂敷でもいいですから、発達科学部でなきゃだめなんだと、ほかで は何でだめなんかというのを、もう論理はいらないんです。熱き思いだけでいい と思うんですよ。徹底的に学生にたたき込む。そこではじめて理科系、いや、文 系じゃないんだと。もう1つ統合した、時間軸でもいいし、宇宙から何かの全部 の発展を含めた発達科学でもいいですから、そういうふうな中で過去、現在、未 来の何かそういうものがやれる学生、学者を育てるんだという、じゃないと将来 の問題、解けませんよという、そういう熱き思いを言ったあとで、各学部の専門 に先生についてスペシャリティーを磨いていけば、必ず10年、20年、人間科 学は30年たってもまだそういう先生おりませんけれども、残念ながら。でも、 そういうふうにやっていくことが、僕は本当の意味の学部を作った意味だと思う んです。

 その先生はまだ生きてる人いらっしゃいますからあれですが、死んでもず っと残っていくのはそういう精神だと思うんです。はったりでもいいんです。僕 はそういうことをここであえて言わせていただきます。どうもすみません。


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つづく